もう少しだけ、そばにいて
土曜日の朝、窓の外はまだ静かで、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
パソコンチェアに座った瞳は、ネット上で流れる琉璃の話題を眺めながら、ひとりため息をついていた。
あの日、絢音が一時的に意識を失った出来事は、すでにネットで大きな話題になっていた。
その後、彼女はSNSにこう投稿した。
すみません、ご心配をおかけしました。
今は風邪で熱があり、しばらく配信をお休みします。
元気になったら、改めて謝罪会を開いて詳細をお話しします。
「……今、どうしてるんだろう?」
瞳の知る限り、絢音の風邪はかなりひどかったらしい。
翌日には両親がすぐに病院へ連れて行き、数時間の点滴と解熱剤でようやく熱が下がり、今は自宅で静養しているとのことだった。
病気の絢音を邪魔したくなくて、瞳はメッセージでそっと様子を尋ねた。
【大丈夫?今の調子はどう?】
すると、意外にも絢音から直接電話がかかってきた。
「もしもし? 電話なんかしても大丈夫の?」
瞳が尋ねると、電話の向こうから少しかすれた甘い声が返ってきた。
「瞳、聞いてよ〜」
「どうしたの?」
「ママがひどいの。治るまでゲーム禁止なんだって。ずっと寝てなきゃダメなんだもん。パパも味方してくれないし」
瞳の眉がぴくりと動いた。
絢音がゲーム好きなのは知っていたが、熱を出してまでまだゲームをしたいなんて、呆れるやら心配やらで言葉を失う。
「ちゃんと休みなよ」
瞳は眉間を揉みながらため息をついた。
「でも、暇なんだもん〜」
ベッドの上で頬をふくらませてゴロゴロしている姿が、目に浮かぶようだった。
瞳は思わず笑みをこぼす。
「……じゃあ、お見舞いに何か買って行こうか?」
少し迷いながらも、瞳は優しく言った。
「ほんとぉ? ありがとう! 甘いものが欲しいの〜」
絢音の声が一気に明るくなる。
「甘い物ね、わかった。でも、邪魔にならない?」
「大丈夫だよ〜。瞳ならママも許してくれるって」
「わかった。じゃあ買い物してから行くね」
「やった! 待ってるね〜!」
スマホと財布を手に、瞳は出かける準備をした。
リビングのソファに座っていた結衣が、少し驚いたように顔を上げた。
「お兄ちゃん、出かけるの?」
「うん。絢音のお見舞いに行こうと思って」
「そっか……。じゃあ、私の代わりに伝えて。絢姉に“お大事に”って」
結衣は一瞬立ち上がろうとしたが、すぐに気が変わったように腰を下ろした。
「ん? うん、わかった」
理由はわからないが、瞳はうなずいて靴を履いた。
「気をつけてね〜」
結衣は手を振りながら、くすくすと笑い小声でつぶやく。
「……きっと絢姉、二人きりのほうが嬉しいだろうしね」
近くのコンビニで、絢音の大好きなプリンといくつかのお菓子を買った瞳は、少し緊張しながら絢音の家のインターホンを押した。
「はーい……あら、瞳くん。絢音に会いに来たの?」
出てきた由紀さんは瞳の顔を見るなり、柔らかく微笑む。
「わざわざありがとうね」
由紀さんはほほに手を当てて、少し申し訳なさそうに言った。
「いえ、お邪魔します。絢音の具合はどうですか?」
瞳は首を振って、家の中へと入った。
「まだ完治とは言えないけど、熱はもう下がったわ」
「それはよかったです」
胸を撫でおろしながら、瞳は二階へ向かった。
絢音の部屋の前でノックをする。
「今、入っても大丈夫?」
「瞳! 入って入って!」
中から明るい声が返ってくる。
「あらあら、元気そうね」
由紀さんが笑いながら言い、
「それじゃ、後はお願いね」と部屋を後にした。
ドアを開けると、ふわふわのルームウェア姿の絢音が、ベッドの上でサメの抱き枕を抱えていた。
瞳の姿を見た瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなる。
「瞳! いらっしゃい!」
「大丈夫?」
血の気のない唇を見て、瞳は思わず心配そうに顔をしかめた。
「うん、もうだいぶよくなったよ」
「まったく……そんな体で無理して配信なんてするなよ」
「だって〜……ごめんね、心配かけて。配信切ってくれたってママから聞いた。ありがと」
「気にすんな。ほら、これ」
瞳は手に持っていたビニール袋を少し掲げて、絢音に渡した。
「プリンだ! しかもお菓子もいっぱい! ぜんぶ私の好きなやつ〜!」
袋の中を覗き込み、嬉しそうに笑う絢音。
「お見舞いなんだから当然だろ」
「ありがとう!」
絢音はにこにこしながらプリンを手に取ったけれど、わざとらしくふにゃっとした動きで、また膝の上に置いてしまった。
「どうかした? 食べないの?」
「体が重くて、力が出ないの。だから……食べさせて〜」
「は? いや、それは……」
瞳は目を丸くした。漫画の中のバカップルみたいな展開に、さすがにためらう。
「お願い〜」
片目をつむって合掌する絢音に、病人相手では勝てるはずもなく、瞳は観念した。
「わかったよ……」
ため息混じりにプリンの蓋を開け、付属のプラスチックスプーンですくって一口。
「はい、あ〜ん」
絢音が小さく口を開ける。
(うわ……想像してたより、ずっと恥ずかしい)
顔を少し赤らめながら、瞳はスプーンを差し出した。
「ほら」
「だめだよ、『あ〜ん』ってちゃんと言って?」
「はいはい……あ〜ん」
もうどうにでもなれ、とばかりに絢音の口元へ差し出すと、彼女はうれしそうに頬を緩めた。
「ん〜、おいしいっ!」
「それはよかった」
「もう一口! もう一口〜!」
「はいはい、あ〜ん」
二人は顔を赤らめながら、プリンを一口ずつ食べ進めていった。
「ありがとう。これで明日には治るかもね〜」
「それはいいけど、ちゃんと寝ろよな」
瞳は立ち上がり、荷物を整えた。
「もう帰っちゃうの?」
「うん、ゆっくり休まなきゃダメだろ」
「今日は本当にありがとう」
「早く元気になれよ。結衣も“お大事に”って言ってた」
「うん、ありがとう……」
その時、瞳が立ち去ろうとした瞬間、袖口を小さな手がつまんだ。
「……絢音?」
瞳が振り返ると、絢音は顔を真っ赤にして手を放した。
「あっ、ご、ごめん……その……」
「ん? どうしたの?」
瞳は優しく微笑む。
「……もう少しだけ、そばにいてもいい?」
その上目づかいに、瞳は小さく息を吐き、彼女の頭をそっと撫でた。
「……ほんの少しだけな。おまえ、病人なんだから」
「うん!」
その笑顔を見て、瞳の胸の奥が少しだけ熱くなった。
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