#05 朋香の疑心
明らかに、さっきまでの雰囲気とは違って、レースの影が激しく動く。
静まり返っていた空気が、一瞬だけひび割れたように揺らぐ。
短い息が漏れ、直ぐに静まり返る辺り、自身の反応に驚いた様子であった。
そのわずかな動揺すらも押し殺すように、再び沈黙が落ちる。
すると、先程までうずくまる小さな影が、スッと立ち上がる。
布越しに伝わるその動きは、妙に滑らかで、不自然なほどに迷いがない。
先ほどの雰囲気とは打って変わって、仰々しい様子に、一仁は目を細めて困惑をあらわにする。
レースの向こうで、何かが決定的に切り替わった――そんな予感だけが、じわりと胸の奥に広がっていく。
次の瞬間。
風もないはずの室内で、レースが大きくはらみ、揺れる。
その揺らぎに押し出されるようにして、布が勢いよく開いた。
ふわりと舞い上がったレースの隙間から差し込む光の中で、彼女の右手に握られたカッターが、遅れて視界に入る。
揺れる布越しに、その刃は一瞬ごとに角度を変え、鈍く、しかし確かに光を返していた。
「――!」
目を見開いて、彼女の表情、息遣い、立ち振る舞いから、この後の展開が瞬時に脳裏をよぎる。
時間が引き延ばされたように、ひとつひとつの要素がやけに鮮明に映る。
それは考えうる中で最悪の想定。
静止の声を上げる前に、振りかぶったその刃先に視線が引っ張られる。
空気を裂く気配だけが先に迫り、反射的に体が強張る。
次の瞬間、決死の勢いで体を捻じり、その攻撃を避ける。
「ちょ、ちょっと、ちょっと……!」
凄まじい剣幕の彼女へ、両手を振って制止を求めるが届かない。
ソファから転げ落ち、四つん這いで必死に逃げるが、空を切る音が背後で幾つも鳴る。
振り下ろされるたびに、風圧だけが肌を打つ。
呼吸も整わぬ為、言葉が上手く発せず、机や壁を挟んで必死に逃げるしか方法がなかった。
一瞬、振り返った時、彼女の両の目は見開き、握る手に力が込められていることが容易に伝わった。
焦点の合わないその視線が、まっすぐこちらだけを捉えている。
障害物を盾に何度も身を翻すが、彼女の猛追は止まらない。
足音が途切れることなく追いすがり、距離が詰まっていくのがはっきりと分かる。
縦横無尽に振り回し、小さな体躯ながらめい一杯に振り回すその攻撃は、近寄りがたいものがある。
その一振り一振りに、ためらいというものが一切存在していなかった。
「い、一旦待って、くれ…! 俺の話を――」
先生の机の裏へ避難していたところへ、机上に彼女の足がかかる。
鈍い音とともに体重が乗り、机がわずかに軋む。
天井から降り注ぐ光が刃先を鈍く光らせ、顔に影を落とした。
心臓の萎縮を感じて、息のつまりを感じる。
肺が空気を求めているのに、うまく吸えない。視界の端がわずかに暗く滲む。
その時だった。
がらがらと音を立てて、部屋の戸が開く音が聞こえる。
張り詰めた空気に亀裂が入るように、その音だけがやけに大きく響いた。
その光景を見たものが発した声であろう、感嘆のため息が漏れる。
驚きとも、困惑ともつかない、その短い息が、場の空気を一瞬だけ揺らした。
「今の若い子って元気ねえ。こら、寝込み襲おうとしたんでしょ」
机の向こうから覗かせる保健室の先生がそう話して、部屋へと入ってくる。
場違いなほど穏やかな声が、張り詰めきった空気に静かに差し込んだ。
二人は急激な冷えた雰囲気に戸惑いを隠せないまま、動きが止まる。
だが、即座に何かを察した朋香は服の袖を持ち、目元を覆う。
そして、机の上で蹲り、自身の腕の中に顔を埋め始めた。
先ほどまでの鋭さは影を潜め、まるでいつもの教室の隅に居そうな雰囲気を漂わせている。
そこへ先生は優しく彼女の手からカッターを取り、脇に手を入れ抱え上げると地面へと降ろす。
抵抗らしい抵抗もなく、その身体はあまりにも軽く、静かに床へと移された。
座り込んでいた一仁へは手を差し伸べて、立ち上がらせると、ズボンについた汚れをはたいて、落とした。
ぽん、と軽く叩かれるその仕草に、ようやく現実へ引き戻されたような感覚が胸に広がる。
「保健室はそういう場所じゃないのよ。もう、カッターなんて危ないんだから―」
ほんわかとした口調のまま、カッターの刃をしまう。
先ほどまでの緊迫が嘘のように、その手つきは慣れたもので、音もなく刃が収まっていく。
二人とも、先生の空気に気圧されたまま、何が起きたのか分からないままにソファに座らされる。
抗う間もなく導かれ、気づけば並んで腰を下ろしていた。
そこへ、紙コップに注がれたお茶が目の前に差し出されて、呆けてそれを見つめる。
「あっ、いや、俺は――」
はっと我に返った一仁は、自身の名誉の為、汚名を挽回しようと言葉を言いかける。
喉まで出かかった言葉が、ようやく形になろうとした、その瞬間。
突如走った左足の衝撃に言葉が途切れ、不発に終わった。
遅れて鈍い痛みが広がり、思わず息が詰まる。
「―――すみません。私が、恥ずかしがったばかりに」
朋香は、恥ずかしそうに顔を伏せて謝罪の言葉を述べる。
その右足は一仁の足を踏みぬいたままであるが、全く表情に出さないまま平然とした様子であった。
むしろ、その仕草と声音の慎ましさが、状況とのちぐはぐさを際立たせている。
「いいのよ、アナタが恥ずかしがることはないわ。けど、分かってあげて? 男の子にはそういう多感な時期があるの」
「えっ? ちょ、ま、待ってください。俺は――っい!」
「分かっています。全てが彼のせいだとは思っていません」
足にかかる力が増し、一仁の表情が衝撃に揺らぐ。
いけしゃあしゃあと語る、厚顔無恥さ。
その声音はどこまでも穏やかで、先ほどの謝罪と何一つ変わらない。
先程までの雰囲気とは打って変わって、別人のような振る舞いをする朋香に、一仁は動揺を隠せずにいた。
視界の中の彼女と、先ほどまでの彼女が、うまく結びつかない。
「それで、君は石井さんに謝ることはないの?」
「え…? あ、す、すみません…」
「―――それでいいと思ってるの?」
先生の表情は暗く、沈んでいる。
言葉の節々が鋭くなり、疑いの目が鋭く光るのを、一仁はひしひしと感じていた。
そこへ、先ほどまでかかっていた足への圧がすっと消え、ふと視線を横に移す。
目をやると、朋香はこちらへ視線を向けることはなく平然としたまま、先生の方へ向く。
冤罪による謝罪がこれほどのものかと、世間への恨みと、男の欲深さに妬みを募らせつつ、一仁は深々と頭を下げ、謝罪の言葉を申し上げた。
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「――で、なんでわかったの」
「いや、そんなことより謝れよ! なんで俺が女子生徒を襲ったことになってんだよ!」
「ちっさい男ね。下げて下がるほど価値ないでしょ、その頭に」
保健室を互いに出て、二人は校舎裏の屋根下に隠れて話をしていた。
お互いに、あまり二人でいるところを見られたくなかったのが主な理由である。
言葉に詰まりながらも、眉間にわずかな皺を寄せ、目をそらしながら答える。
「……確信は時間を確認するのに、壁の時計を見たから」
「…? そんな理由で決めつけたの」
「そこが一番気になった。みんな、時間を確認するのにわざわざ遠い時計は見ずに近くのスマホで見るんだよ」
一仁は、上を見上げて時計を見上げる仕草をする。
その仕草に納得がいかない様子の朋香は眉をひそめた。
「そんなの…充電がなかっただけかもしれないじゃない」
「だが、スマホを確認しているような動作もしていなかった。今どきの奴は病気みたいに最初にスマホから開くんだよ、電池が無くてもな」
そういって、何気なくスマホ画面を起動する一仁に対して、未だに訝しむ朋香。
眉をひそめ、視線を鋭く向けたまま、納得できない様子が滲む。
だが、それを分かっていたかのように、一仁は間を置かずに口を開き、「それに」と、言葉を続けた。
「一番の理由は本を読んでいる時だ」
「…?」
「――お前、文字読めないだろ」
その言葉に、朋香は今までにない様子で目を見開く。
驚きと、少しばかりの警戒が入り混じった瞳が、一仁をしっかりと捉えた。
図星と言いたげな顔に、満足そうに笑みを浮かべた一仁は、壁に背を付けて身を安定させ、説明を続けた。
「纐纈も、おにぎりの名前が読めていなかった。お前も本を読むとき、右から左にページをめくっていた。普通は左から捲るんだよ」
「……! あお、あおのこと知ってるの?!」
突如、言葉を遮るように一仁の胸倉をつかみ、鼻先に当たる勢いで距離が縮まる。
さっきまでの話を全て置き去るように、彼女は鼻息を荒々しくして詰め寄った。
「あおは…! あおは、今どこにいるの!」
「ま、待て待て。一回落ち着いてくれ、情報を整理するために今話してんだろ。先走って話始めたら纏まるものもまとまらん」
「……っ」
眉をひそめて、下唇を噛む。
その時の悲痛な表情は、一仁の脳裏に強く印象付けるほど、複雑な色を帯びていた。
怒りでもなく、恐怖でもなく、迷いと訴えが入り混じった――言葉にできない感情がそこにあった。
さっきまで孕んでいた疑念を彼方に捨て、うるんだ瞳でしかと一仁の服を掴んでいた。
「―――そうね」
弾んでいた鼓動を落ちかせ、言葉の節が柔らかくなる。
力んでいた両手から、徐々に力が抜けていき、消え入るような声とともに両手を下ろす。
視線を伏せ、次の言葉を待つように耳を傾けていた。
「とりあえず、色々説明しよう。俺も個人的に気になる話がいくつかある」
「いいわ、私も聞きたいことが山ほどある。多分、今聞いてる限りでもあなたは手遅れっぽいし…とりあえず、あおと合流したいわ。今どこにいるの?」
朋香の問いに、すらすらと答えていた一仁の口が、急に言いよどむ。
それは、彼女の惨状を正確に伝えるか否か――その一瞬の選択に、咄嗟に答えられなかったからだ。
だが、朋香のまっすぐな視線に根負けし、言葉を呟くように囁いた。
声はか細く、しかし真実を伝えようとする重みが含まれていた。
先程まで落ち着いていた表情は何処か消え、惨状を想像したであろう彼女の顔には、今までにないほど青ざめた色が浮かんでいた。
瞳の奥の光を失い、頬の横を冷汗が伝る。




