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#01 邂逅の朝

 なんてことのない、日常の一日だった。

 湿った風が制服の袖を揺らし、遠くでカラスが鳴いている。いつも通りの下校道。見慣れたはずの景色のはずだった。


 だが、誰も近づかないゴミ山の中に、彼女はいた。


 最初は、ただの見間違いだと思った。

 打ち捨てられた家電や錆びた鉄骨の影の中、ひとつだけ異質な輪郭が立っている。


 足は泥に沈み、膝まで汚れている。頬には乾きかけたドブ水の跡が筋を描き、髪は艶を失って枝毛が夕日に透けていた。それでも――その佇まいには、不思議な均整があった。


 そっと、目が合う。


 彼女は眉間にしわを寄せ、かすかに唇を動かす。

 何かを呟いたのだ。風に紛れて聞き取れないはずなのに、その言葉が自分に向けられたものであることだけは、はっきりとわかった。


 ――互いに、認識している。


 彼女は泥に埋もれた片足を、ゆっくりと引き抜いた。続いてもう一歩。瓦礫が崩れ、小石が斜面を転がり落ちる。


 夕日の逆光で、まだ表情は見えない。

 だが、光の縁取りに浮かぶ輪郭は、次第に鮮明になっていく。


 夕日を背負い、赤く染まる空を背に立つその姿は、どこか絵画めいていた。荒れた世界の中心に、ただ一人、美しさだけが残されたかのように。

 整った鼻梁、細い顎の線。欠点という言葉が似合わない顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる。


 泥をまき散らしながら歩み寄る彼女に、自然と半歩、足が下がった。

 逃げたいのか、確かめたいのか、自分でもわからない。


 心臓が耳元で鳴る。

 激しく鼓動が乱れ、呼吸の仕方さえ思い出せない。喉が乾き、指先が冷える。

 それでも、目だけは逸らせなかった。


 距離が縮まる。

 彼女の唇が、もう一度動く。


 今度は、はっきりと聞こえた。


 それが何を意味するのか理解するまでに、時間はさほど必要ではなかった。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「―――カズ、なんか今日ずっと上の空だな」


「…そんなことないだろ。いつもどおりだ」



 佐原は焼きそばパンを口からたらしながら滝野瀬の横顔を眺めて、ぼそりと呟く。

 見上げていた晴天の下で、思い出したかのように溢れた焼きそばを啜った。

 ソースが暴れて吸われる中で、最後の抵抗と言わんばかりに汁が飛び跳ねて主の瞳に直撃した。



「失恋二日目って感じだな」


「し、失恋?!?!?! え、えお、お、俺らの童貞同盟どうしちまったんだよ…!」


「…岡田も適当言うなよ、コイツなんでも信じるんだからよ」


「大丈夫。お前が3年の柊先輩で卒業した話は口が裂けても言わねーから」



 直後、聞いたことない断末魔の叫びに全員が耳を覆う。

 見ると、佐原が般若の形相でブリッチをしたまま頭を抱えていた。


 体は、まるで高圧電流でも流されたかのように、びくびくと激しく震えて、声も絶え絶えに悲鳴は鳴りやまない。


 一方、その状況を作り出した外野の岡田と小林は腹を抱えながら動画を撮影している。



 無論、嘘だと分かっている外野にとっては笑いの種でしかないことは明白。

 だが、入学当初、校門で一目見た時からずっと柊先輩を追い続けてきた当人にとって、毛ほどでもあり得る事実が身が捻じれるほど耐えがたい現実なのだろう。



「……もう、めんどくせぇなあ。どうするんだよ、もたもたしてるうちに柊先輩に彼氏できたら」


「お、おま…い、いいか、仮に10歩譲って彼氏が先にできてしまったとしよう」


「もっと下がれよ」


「100歩も妥協できないの草ァ」



 小林は口に含んだ菓子パンを噴き出しながら笑い声をあげる。

 その手には変わらずRECの赤ランプがついたままであった。



「告白した返事が『まずは、ありがとう。でも、ごめんなさい。実は少し前からお付き合いしている方がいるの…』なんて言われた日にゃ、先輩が好きだっていってたベランダで育ててるベゴニアの花を引き抜いちまう…けど、その花を見て、先輩の面影を思い出し―――」


「前から知ってたけど、コイツの恋愛行動キショいな」


「この前、先輩と同じ匂いになりたいってスーパーの柔軟剤の試香コーナーにいたぞ」


「その努力の方向性、別のことに生かして、どうぞ」


「お前ら、一回最後まで話聞けよ!!」



 別館の体育館裏が俺らの昼飯スペースなのだが、本館の端まで聞こえてそうな佐原の絶叫は本気さを物語っている。

 佐原がこれほど本気になるのは、柊先輩とタレントのSYKA₃の時に発動するので、どれだけの情熱を持って話しているのかが嫌でも伝わる。



「…はあ、想像してたら嫌になってきた。もし振られた理由が『彼氏がいたから』じゃなくて『佐原君だから』なんてもし、言われた日には、先輩の酸素袋叩き割っちまうよ…」


「やばい、怖すぎてそれが何なのか聞けないんだけど」


「どうする、今の内に警察に突き出した方が世の為か?」


「そのストーカースキル、もはや才能なのでは??」



 沈んだ表情で頭を抱え続ける佐原をよそに、三人は何食わぬ顔で昼食を広げていた。

 スマホの画面には、先ほど録画したばかりの事故映像が再生されている。


 無音でも見ても破壊力抜群の映像に噴き出し笑いは止められない。

 ふと、視線を流して佐原を見やると顔を膝に埋めて体育座りをしている。


 さすがに、これ以上いじり倒すと面倒なことになりそうだ――3人の間に、そんな空気がうっすらと流れ始めた、そのとき校内に響くチャイムの音に顔を上げた。


 手早く片づけを済ませて、こぼれた具材を足で払う。

 ソースの染みたキャベツやパン屑が乾いた土に紛れて見えなくなった。

 そんな最中、1人微動だにしない気配に3人は顔を見合わせる。


 先に戻ることだけを伝えて、誰ともなく立ち上がってその場を後にした。

 本館の扉に辿り着くと、先ほどの位置に小さな影がぽつんと取り残されている。


 3人は足を止め、沈黙。

 やがて、小さなため息とともに、滝野瀬は2人に先に戻るように伝えた。



「いいのか? ホントに先行ってるぞ」


「――いいよ。このまま置いて行った方が後で恨まれそうだ」




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「終わった――!! っしゃー帰ろ帰ろ」


「…お前、午後の授業寝てただけだろ」



 佐原は両手を高く掲げて大きく背を伸ばすと、ふっと力を抜き、そのまま背もたれに全身を預けた。

 前の座席がぎしりと小さく軋み、首だけを直角に傾けてこちらを振り向く。



「あいつら今日部活だろ? 一緒に帰ろうぜ」


「あー…悪い、今日はちょっと用事あるんだ」


「…女か?!」


「だっ…から、飢えすぎだろお前ェ! 全部が全部そんなんじゃねえわ!」



 そう言い切ると、佐原の後頭部に手をやり、ひっくり返すように無理やり前を向かせた。

 次の瞬間、体勢を崩して机に前のめりに突っ込む。


 ばん、と。

 水風船を叩きつけたような音が、教室に響いた。



「うっぅううう…一人寂しく帰る俺を見捨てて、一人で帰っちまうって言うんか…いつからそんな薄情になったんだよカズぅ――」



 机に突っ伏したまま震えている佐原を一瞥もせず、滝野瀬は淡々と別れを告げて教室を出た。

 背後で途切れないうめき声が追ってくる気もしたが、気のせいだと胸の内で切り捨て、そのまま帰路につく。



 大階段へ出ると、ちょうど運動部の一団が駆け上がっていくところだった。

 すれ違いざまに風が巻き起こり、湿った空気に汗の匂いと熱気が混ざる。気合いの入った掛け声が高い天井にぶつかって反響していた。


 滝野瀬は思わず少しだけ身を引き、その騒がしさを背中で受け止める。

 そして何事もない顔で、ひとり分の静けさを連れて、ゆっくりと階段を降りていった。



「――あっ! 滝野瀬先輩…ですか?」



 不意に背後から声が飛び、一仁は足を止めた。怪訝そうに眉を寄せ、ゆっくりと振り返る。


 そこに立っていたのは、ひとりの女子生徒だった。肩で大きく息をし、頬は走ってきたのか赤く染まっている。額には汗がにじみ、こめかみを伝って雫が落ちた。

 額から溢れんばかりの汗をにじませ、長いまつげが瞳の侵入を妨げていた。



「―――…?」


「え――! お久しぶりですぅ! 元気でした? 全然見かけないから見間違いかと思いましたよぉ!」


「はぁ…」


「…あぇ、分かんないですか? それマジのヤツ、冗談のヤツです?」


「…マジでわかんないです」



 服の裾で頬の汗を拭い、腹部がちらりと顔を見せる。

 思わず視線がそちらに向いてしまう一仁であったが、決して知らないふりをしたのはそれが理由ではなかった。

 顔をまじまじと見つめた。陽を含んだ褐色の良い肌、ベリーショットの黒髪は無造作に整えられ、そのその隙間から覗く額は暖かさ感じさせる。

 そして、涙の位置を教えるように一つ小さなほくろがぽつり。彼女の印象を鮮明にする印を携えていた。



「ちょっとショックですー。何度か話したこともあったのに……まあ、2年も前だし無理ないか―」



 彼女は、ぽつりと独り言のように何かを呟いた。

 だが一仁にはうまく聞き取れず、ただ首を傾げるばかりだった。


 ほんの数秒。

 互いに言葉を失ったまま、じっと顔を見つめ合う。彼女の表情には喜びと戸惑いが入り混じり、今にも崩れそうな笑みを浮かべている。


 そのとき、遠くから彼女の名を呼ぶ声が飛んできて、はっとしたように、彼女の肩が小さく震える。



「あっ、それじゃまた先輩。また今度、思い出してもらえるように教えてあげますから―!」



 そう叫ぶと、彼女は手を大きく振りながら階段を駆け上がっていった。

 まるで嵐のような一瞬の出来事であったが一仁は首をひとつ傾げ、しばらく考え込む。

 しかし、思い出すことは特になく、やがて肩の力を抜いて帰路についた。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 一仁の帰路は、最寄駅から歩いて十五分ほど。

 駅構内は人でごった返し、ようやく人混みが落ち着き始めたころ、遠くに家々の屋根が見えてくる。


 お世辞にも都会とは言えないが、どこか懐かしい町並み。

 昔ながらの老舗が軒を連ね、趣のある景色が目を和ませる。

 しかし、少子高齢化の波には抗えず、若者の姿が減った影響で、一部のエリアには不法投棄の山ができていた。


 誰が名付けたのかは定かでないが、その腐臭漂う粗大ごみの山は、町ではいつしか「腐れ山」と呼ばれて、敬遠の象徴として忌み嫌われていた。



「――…」



 一仁は、入口に朽ちかけた黄色い警告テープが垂れる「腐れ山」の前に立っていた。


 この場所に立ち入ること自体は、市の条例で禁止されてはいない。

 だが、ここに足を運ぶ者の多くは、悪ふざけ目的か、不法投棄目的か、あるいはその両方だ。


 どちらにせよ、近づく理由がある人間のほうが圧倒的に少ない――ただ、それだけの場所だった。



「……はぁ」



 一仁は、深いため息を漏らし、眉をひそめてから後頭部をかき、警告テープをくぐり抜けて腐れ山の中へ足を踏み入れた。


 鼻を突く、鋭く刺すような異臭。

 鼻をつまんでも、その嫌な匂いは鼻腔にこびりつき、簡単には消えない。

 先日も、この匂いは家に着いたあとまで消えず、母親に「誰かにいじめられているのでは」と心配されるほどであった。


 一つ一つのゴミの山の間には、人がかろうじて通れる導線が作られていた。

 その細い道を掻い潜って進むと、奥のほうにひとつの人影が見える。


 こちらに気づいていないらしく、うずくまったまま動かない。

 一仁は短く息を吐いて「おい」と呼びかけた。



「――! 遅いわよ。私がどれだけお腹を空かしていたか分かってるの? みて、こんなにお腹が鳴りやまないのよ」



 振り返った彼女の黒髪は、すでにツヤを失い、何日も洗われていないことがひと目でわかる。

 しかしその乱れた印象とは裏腹に、顔立ちは驚くほど端正で、不釣り合いさがかえって目を離させなかった。


 泥で汚れたスカートの裾をはたき、制服の襟元を引っ張って整える。

 装いは決して綺麗とは言えないが、本人はどこか満足げな表情を浮かべていた。



「いや、知らねえよ…ほら、これでいいか?」



 そういって、鞄から膨らんだビニール袋を取り出すと彼女の目の前におにぎりを1つずつ並べて見せる。

 高校生ならまず間違いのないラインナップを並べて眉を浮かせる一仁。

 だが、用意した当人とは対照的に彼女の表情は暗く沈んだものだった。



「…これは、何味を持ってきてくれたの?」


「まず、ツナマヨ、紅鮭、塩むすび、それから塩昆布だな」


「えぇ――…それは、ナンセンスだわ」


「だろー? …ハァ?! え、ツナマヨ、紅しゃ…いや、これ以上のチョイスあるか?」


「一番はピーナツみそでしょ。イマドキの女の子なら必ず押さえる(チョー)ポイントだと思うんだけど…遅れてる?」



 顔を引きつらせ、ため息をつきながら嫌々ビニール袋へ手を伸ばす彼女よりも早く、一仁はそれを掻っ攫った。

 驚いた表情を浮かべ、奪われたビニール袋を取り返そうとする彼女に向かって、一仁はそれは自分が用意したものだと主張する。



「ちっさい男ね! いいから返しなさいよ!」


「返すんじゃねえ、元々俺のだ!」


「だっから、あげるために持ってきたのならそれは私のじゃない! かえし――」



 突如、言葉を遮るように、彼女は目を見開いた。

 次の瞬間、音も立てずに腐れ山の陰へと身を隠す。

 何が起きたのか理解する前に、彼女は口元に人差し指を当て、静かに手招きした。


 言われるがまま忍び足で隣に腰を下ろす。

 周囲が静まり返ったそのあとで、微かな声が聞こえたような気がした。



 二人の話し声だ。

 どちらも高く、若い女子の声であることははっきりと分かった。

 山の陰に隠れて姿は見えないが、言葉遣いから女子学生だろうと容易に想像できる。


 しばらくやり取りを聞いていると、やがて声は徐々に遠ざかっていった。


 山の陰で小耳を立てていた彼女も、険しかった表情がゆるむ。

 深く息を吸い込み、胸を撫で下ろした。



「―――あの話、本当だと思ってるのか…? 信じられないけどな」


「ハァ、信じてるに決まってるでしょ?! じゃなきゃこんなきったない所で何日も隠れてないわよ」


「まあ、ネットよく見る人ならその顔はピンとくるかもしれねえけどよ…」



 そう呟きながら、スマホのニュースサイトを開き、最近のトピック一覧に並んだ記事のひとつをタップする。

 そこに映っていたのは、大きなソファに腰かけ、インタビューに答えているとある少女の姿だった。


 画面の向こうに映るのは、十人十色の美人を集めてその中から一番を選ぶとしたら、迷わず彼女を選ばざるを得ないほどの美少女だった。

 現役女子高校生インフルエンサーとして首位を張り続けている人気もあり、若い世代の間では彼女を知らない人のほうが少ないとも言われている。


 その画面越しにいるに美少女と重なるのは目の前にいるツナマヨを頬張る纐纈葵(こうけつあおい)の姿だった。



「……」


「ぅあ! ひま、ひゅひょいひふれいなほおはんはえたへほ」


「食ってから喋ってくれ」



 一仁は腕を組んで唸った。

 それは、目の前の有名人に臆したからでも、意外な素顔に驚愕したからでもなかった。



「本当に同一人物か…?」



 疑念の意を唱えながら、スマホの画面へ視線を落とす。


 眉をひそめ、画面に穴が開くほど見つめる一仁は画面の彼女の容姿を事細かく確認する。

 切れ目の小顔、同い年と思えないスタイル、瞳の大きさ、雰囲気。

 見た目が、泥にまみれたせいで分かりにくいのだが、似たようなポイントは重なる点も見受けられた。




「なに、なんか言いたいことあるの? それとも、()()()やっぱ信じてないわけ?」



 睨みを利かし、此方の様子に不服な纐纈。

 だが、その反応に「いや」と訂正を入れ、



「あの話どうこうより、お前がこの人と同一人物だというのが…いや、なんでもない」



 両手におにぎりを抱え、構わず頬張る彼女に視線を送ると、思わずため息が漏れる。

 鼻が曲がりそうなほどの匂いに顔をしかめながらも、その無邪気に食べる姿を見ていると、どこかリスの姿が重なった。


 次はどんぐりでも持ってきてやろうか――ふと、そんなことを考えてしまう自分がいた。

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