五分先の君
『君だけが知っていた先に私はいたのかな』
その日は朝から運が良かった。
目覚ましよりも早くに目が覚めた。
朝の準備に無心で取り掛かれた。
通勤電車の車内混雑がいつもより苦じゃなかった。
中々買えない数量限定のたまごサンドが買えた。
信号の待ち時間なく職場に着いた。
一つ一つは些細なことでも、嬉しいことが積み重なると自然と気分が良くなった。
「おはようございますっ」
だから朝の挨拶も、自然と気持ちが漏れ出たのかもしれない。
普段話さない同僚の何人かがこっちを見たのに気が付いて、どうやら自分は思った以上に浮かれていたらしいと自覚した。
らしくなかったと恥ずかしくなって足早に席に向かおうとした時、すぐ脇から聞こえた声に私は思わず足を止めた。
「おはようございます」
「おはよ……う……ご……ざいます」
返ってきた挨拶に反射的に返事しようとして、目が合った相手は木本君。
寡黙と言う言葉では足りないような、仕事以外の会話を一切聞いたことがない後輩君で。面と向かって挨拶しない限り無反応が常の彼が、挨拶を返してきた事実に驚いて私の思考は停止してしまった。
それは私に限った話ではないようで。木本君が挨拶をしたという事実に気づいた同僚たちもみな目を見開いて彼を見ていた。
「あれ?きもっち。吉原となんかあったんか?」
「何もありません。あと、先輩。その発言はセクハラです」
木本君の「異変」にコミュ力お化けの甲斐さんが当然のように食いついたが、木本君はそれを冷たく返す。
しかし、あの木本君が一言だけでも返事したという事実は周りを更に驚かせた。
その後の木本君はいつも通りの平常運転に見えて、関係ない話題には無反応になってしまった。
いつも通りに戻ってしまったとは言え、あの木本君から業務連絡以外の言葉を引き出した事に興奮したのか、甲斐さんが近くにいた私の肩を掴もうと手を伸ばし、直前で押し留まった。そしてその手を握っては開いてすると、今の行動を誤魔化すように両手を広げて尋ねてくる。
「きもっちが返事した!吉原、マジで何したの?」
「……記憶にございません」
格好だけ見ると胡散臭いチャラ男っぽいなぁ、という感想は心の内側に留めながら、私自身もどこかの胡散臭い政治家みたいな返答して席に座る。
回答の仕方は嘘っぽいけど、身に覚えがないのは本当だった。
木本君の奇行は続いた。
朝のチームミーティングでは、近頃はまっているライトノベルの話を始めて、「やり直してみたいこと、戻りたい時間ってありますか?」なんてオープンクエスチョンを投げていた。
木本君とは関係ないけど「やり直したら、今ある出会いは全部なくなっちゃうんだろ。だったら今のままでいいや」って言った甲斐さんの回答がやけに耳に残った。
お昼時には、いつも社内の休憩室でコンビニ弁当を一人で食べてる木本君が、みんなと一緒に食事をすると申し出ていた。
甲斐さんがまた騒ぎ出して、木本君はそれに困った顔で応じていたけど、応えるだけでも異常事態で。同じチームの加賀美さんなんかは、「大丈夫?何か悩み事でもあるの?明日いなくなったりしない?」と木本君のことを本気で心配し始めてた。
少しハイテンションな甲斐さんを先頭に行きつけのお店に向かう。
歩きながらひたすら話す甲斐さんは、これを機に、他の同僚とも仲良くさせようというのか、やたらと一緒にご飯に行くみんなに木本君と絡ませようとしていた。
そんなこんなで店の最寄りの交差点に辿り着き、信号待ちのために立ち止まる。
少し疲れた雰囲気の木本君を見て、加賀美さんが甲斐さんの首根っこを掴み、後ろに引っ張ると
「お散歩前の犬みたいに喜んでるの見てて可愛いって思えるのは、犬や可愛らしい子だけで、甲斐さんのそれはうざいだけだから大人しくしてて」
と、一言。
私も心の中で「はしゃぎすぎだよ」とは思ってたけど、加賀美さんは容赦なかった。
「加賀美さんには逆らわない」と、私が心に決めたことなど当然加賀美さんには分かるはずもなく。
「今日はどうしたの?」
甲斐さんに対して向けたものとは別人みたいな声音で加賀美さんが木本君に話しかける。
「なんとなく、です」
眉を下げて少し困ったふうな様子で話す木本君。その彼の視線が加賀美さんではなく交差点の向こう側にある気がしてその視線を追ってみると、これから向かうお店の前に列が出来かけているのに気づいた。
「先行って並んできますね」
一度並び始めると、待ち時間が長くなってお昼休み中に、会社に戻れなくなるかもしれない。
信号もちょうど青に変わったからと私はみんなに声を掛けてお店に走り出そうとして、不意に誰かに手を握りしめられ足を止めた。
見れば私の手を握りしめたのは木本君で。何事なのかとみんなが呆気に取られていると。
「交差点では左右を確認してから渡らないと」
そんなことを真顔で言ってきた。
一瞬、誰もが呆気に取られたが、直後に甲斐さんが「子供かよ」と突っ込みを入れて笑った。
皆が釣られて笑ったその声をかき消すように、ものすごい勢いで交差点を車が通り過ぎていく。
それを追うようにしてパトカーのサイレンが聞こえて。
「は?」
吹き抜けていく風に崩れた髪をかき上げながら、甲斐さんが交差点を振り返る。
そんな中、木本君だけは一切動揺した様子を見せずに握り締めていた私の手を離す。
「実は僕は五分先の未来から来たんです。だから、みんなが無事でよかった」
交差点を凝視していたみんなの背に向かって独り言のように呟いた。
木本君の表情はビルの影に隠されて、はっきり見ることは出来なかった。でも、笑顔に「なろう」としているように見えた。
車が交差点に敷かれた鉄板を通り過ぎる度にガタガタと音が鳴り、周囲は先ほどの捕物の様子にざわめいていて。
なのに、なぜか木本君の呟くような声だけははっきり耳に届いてきた。
それは私だけではなかったようで。
「きもっち、そんな冗談も言えるんだな?やばっ、今日は新たな一面出し過ぎだろ」
甲斐さんが振り向いて木本君の発言を茶化す。木本君は照れたように笑い、けれど言葉としては何も返さなかった。
それは本当に冗談だったのか。
私の手を握った木本君の手は驚くほどに冷たくて、酷く震えていたように感じた。
じっと見つめる私に気づいて、木本君は私の方を見る。
彼が浮かべた笑顔は、想像通りぎこちなくて。でもそれは、普段から笑顔を浮かべる事に慣れていなくてそんな表情になったのか、それとも無理矢理笑顔を作っているからそんな表情になったのか。
言葉で触れただけでも壊れてしまいそうに見えて、私は木本君に問えなかった。
『本当ならどうなってたのか』
なんて。
『やり直したら、今ある出会いは全部なくなっちゃうんだろ』
朝会で言った甲斐さんの言葉が頭を過る。
もしも本当にやり直したのなら、木本君は何を失ってしまったんだろう。
握りしめられた木本君の手が、まだ震えているように見えた。
私はその手を隠すようにもう一度握ると、「ありがとう」と、それだけを伝えた。
私より五分先を生きる君
ホントならこの手繋げなかったね