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シログチ  作者: どくだみ
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後編

 良雄と房子が帰ったのは、ほぼ同時だった。

「あれ、良雄、塾じゃなかったの?」

 まだランドセル姿の息子の姿を見て、房子が驚いたように声を上げた。

「いやー、まいったよ。クラスで吊るし上げられてさ。結局、学校祭の準備を手伝う羽目になっちゃった」

「何ですって? そんなことされたの、お前? すぐ学校に苦情の電話を入れてあげるわ」

 血相を変えた悦子が電話に飛びつこうとした。だが、それを良雄が制した。

「やめてよ、母さん。もういいんだ。もういいんだよ」

 そう叫んだ良雄の顔は晴れ晴れとしていた。しかし、房子の顔から曇りは取れていない。

「だって良雄、あんたは中学受験に向けて今が大切な時期なのよ」

「卒業に向けても大切な時期でもあるんだ」

「はあーっ」

 房子は深いため息をつくと、銀色の光沢を放つ魚に目を落とした。スーパーの若者からもらったイシモチだ。房子はそれ以上、会話をしようとはせず、キッチンへと向かった。

 パックから口を半開きにしたイシモチを取り出す。少し生臭い魚の臭いが鼻先をかすめた。

 房子は釈然としない胸の内をぶつけるがごとく、魚の喉元に包丁を入れた。あまり手入れのされていない包丁ではあったが、柔らかいその身は銀色の刃をすんなりと受け入れてくれた。

(締まりのない魚だこと)

 房子は包丁を入れながら、そんなことを思ったりもした。ドロッとした血液が流れ出した。


「ただいまー」

 玄関を開けて悦雄が帰宅した。

「父さん、お帰り」

 良雄が居間から顔を覗かせる。房子は一言も発さない。

「おう良雄、お前、今日の塾はどうした?」

「学校祭の準備を結局、手伝ったんだ」

「そうか」

 悦雄の目尻が下がった。そして、手が良雄の頭に伸びる。

「今日は早かったのね」

 房子が捌いたイシモチに塩を振りながら、肩越しに言った。その言葉に抑揚はなかった。

「ああ、電算がストップしちゃってね。今日は早仕舞いだ。それはそうと、それはイシモチじゃないか?」

「そうよ。スーパーの魚屋でもらったのよ」

「魚屋のイシモチか」

 悦雄が渋い顔をした。

「何か不満?」

 房子が振り向き様にキッと悦雄を睨んだ。悦雄は肩をすくめておどけてみせる。その仕草がまるでピエロのようだ。

「母さん、機嫌が悪いな」

 小声で囁きながら、悦雄が良雄の脇腹を突ついた。

「俺が今日、塾に行かなかったからね」

「やっぱり、それか」

 悦雄がニタッと笑った。

「何をコソコソ話しているのよ。一体、私は何のためにスーパーでパートをしていると思っているのよ。それもこれも良雄の塾のためじゃない!」

 イシモチをコンロに入れた房子が泣きそうな声で叫んだ。房子にとっては自分の働く意義が、今までの時間が否定されたような気持ちになっていたのかもしれない。

「まあまあ」

 悦雄が房子の肩を叩いてなだめる。だが、房子は肩を振って、頑なに周囲の空気を拒絶しようとしている。

「父さんも母さんも秋田の出身だったよね。『なまはげ』について教えてよ」

 その良雄の言葉に房子が顔を上げた。頬に一筋の滴が流れている。そこだけ化粧がはげ落ち、肌の色が変わっている。

「いいとも。だが、何で知りたいんだ?」

 悦雄が興味深そうに尋ねた。

「今度の学校祭でお化け屋敷をやるんだけど、俺は『なまはげ』をやることになったんだ」

 良雄が得意そうに言った。その言葉を聞いて房子が悦雄の顔を見た。悦雄も房子の目を見つめ返す。二人はニコッと笑って頷いた。


 食卓には焦げ目の少し付いたイシモチが並べられていた。白くなった目玉は、自分が食材になったことが信じられぬように、宙を睨んでいる。

 悦雄はやや曇り顔でイシモチを眺めていた。

「どうしたの? 父さん」

 良雄が父親の怪訝な顔を見て尋ねた。

「このイシモチはおそらく網で獲れたものだろう。だったら、あまり美味しくないよ」

「そうなの?」

 房子が驚いたような顔で悦雄を見た。

「食べられないことはないが、水っぽくて締まりがない。場合によっては生臭い。イシモチは獲れたら、生き締めにしないと、美味しくないんだ」

「生き締めって?」

 良雄が興味深そうに尋ねた。

「エラブタの付け根を切って、血を抜くんだ。他にもサバとか青い魚は生き締めをした方が美味しいんだよ」

「それで売れ残っていたのね」

 房子が神妙な顔付きになった。

「いや、馴染みがないんだろうな」

だが、房子の顔は晴れない。鮮魚コーナーの若者の爽やかな笑顔が、したたかなほくそ笑みへと変わっていく。「青い闇の警告」はこうして、本当に警告を発しながら、房子を現在の生活に引き留めたのである。

「どれ」

 悦雄が箸をイシモチに伸ばす。銀色の皮を毟り取り、白身と一緒に口へと運んだ。

「どうだい?」

 良雄が興味津々の顔付きで、悦雄を覗き込む。

「ふむ。不味くはないが、やっぱり、ちょっと水っぽいな」

「いただきます」

 良雄も箸を伸ばす。続いて房子も箸をつけた。

「ちょっと、だらしがない魚ね」

 房子が苦笑いをしながら言った。おそらく彼女の脳裏には鮮魚部門の若者の姿が浮かんでいたに違いない。

 若者は確かに見た目は良かった。それこそ、甘いマスクに髪を茶色く染め、そのスマートな姿態に房子も一時は、その心がときめいたりもした。しかし、房子にはやはり守るべき家庭が、愛すべき家庭がここにあった。そのことに改めて気付いた時、若者への憧憬は微塵もなく吹き飛んだのだ。

 房子がイシモチを「だらしがない」と評したのも、若者への言葉と取るよりも、自分への戒めだったのかもしれない。

「そうでもないぞ。お前も以前に食べたことあるんだぞ。俺が釣ってきたイシモチを」

 悦雄が得意そうに言った。

「あら、そうでしたっけ。いつもいろんなお魚を釣ってくるもんだから、忘れちゃったわ」

「わはははは!」

 三人が大笑いをした。

「イシモチはな、頭の中に石があって、それで『イシモチ』って言うんだ。釣り上げると、ウキブクロをグウグウ鳴らして鳴くんだ。それが愚痴を言っているみたいなんで『グチ』と言うんだよ。関東で獲れるのは主に『シログチ』って言われている種類だ」

 悦雄は釣りや魚の話になると、夢中になる。今まではあまり耳を傾けなかった房子だが、今日は真剣に聞いている。

「私もこの魚のように愚痴を言いたいわ」

「どんどん言えばいいさ。そう言えば、最近はみんな、時間帯がすれ違って夕食さえ一緒に食べることがなかったな」

 悦雄がしみじみと言った。心なしかその瞳は潤んでいるようだ。

「この魚、美味しいよ」

 良雄がポツリと言った。良雄は俯いている。

「えっ?」

 悦雄と房子が良雄を見た。

「どんなに豪華な食事だって一人で食べると不味いもん。このイシモチだって、みんなで食べれば美味しいよ」

 良雄の箸が震えていた。

「そうか」

 隣に座る悦雄が、良雄の肩を抱き締めた。

「良雄、ごめんね」

 房子がエプロンで涙を拭った。そして、箸を持つ手の上から、強く手を握った。

「よし、今度の日曜日、みんなで釣りに行こう。狙いはシログチだ。実は市役所の愛好会で計画があってね。企画の相談に乗っているんだ」

 悦雄が良雄の肩を叩きながら言った。

「釣り? もしかして、あのイソメとかいうムシを付けるの?」

 房子がしかめっ面をする。だが、悦雄は言い出したら後へは引かない。殊更、釣りに関してはそうだ。

「大丈夫。俺が付けてやるよ」

「船酔いはしない?」

 今度は良雄が心配そうに尋ねる。

「東京湾は波が穏やかだし、酔い止めを飲んでおけば大丈夫だよ」 

 悦雄がにこやかに答える。房子と良雄は顔を見合わせた。

 実は良雄は日曜日、塾の模擬テストがあったのだ。しかし、今の良雄の心は釣りに傾いていた。

「家族で出掛けるなんて、いつ以来かしら?」

 その房子の言葉に悦雄と良雄の顔がほころんだ。


 翌日の朝、市役所の給湯室に二人の男を見ることができる。無論、悦雄と田崎だ。

「なあ、今度の竿鱗会なんだが、シログチにしないか?」

 悦雄が湯飲みに入った茶を啜りながら呟いた。

「シログチって、イシモチのことだろう? イシモチか、イシモチねえ」

 田崎の態度は煮え切らない。腕組みをして、深く考え込んでしまった。

「何か、不満か?」

「いや、前回がシロギスだったし、小物が重なるじゃないか。イナダの声が上がっているんだよ。それにマイナーな釣り物だよ、イシモチは。キス釣りやアジ釣りのゲストのイメージが強いな」

「意外と専門に狙ってみると面白いんだよ。なかなか食い込まなくって。それに生き締めにすると、刺し身でもイケる。金沢八景あたりじゃ、専門に狙っている船宿もあるくらいだ」

 悦雄は渋る田崎に食い下がった。女房と息子に約束をした以上、もう後へは引けなかった。何としてでも田崎を説得するしかない。

「うーん」

 田崎は腕組みをしたまま固まってしまった。

「おはようございます」

 そこへ野地がポットへお湯を入れにやってきた。課内でも一番若手の彼は、いつもお茶係なのだ。

「おう、おはよう。ところで野地、お前、釣りをやらんか?」

 悦雄に突然、仕事以外の質問をされ、野地はキョトンとした顔をしている。彼にはよほど、悦雄が「堅物」というイメージがあったのだろう。

「釣り、ですか? 以前にフライフィッシングを齧ったことはありますけどね。あまり釣れないもんだから、やめちゃいましたよ」

「お前、沖釣りをしてみる気はないか?」

「はあ、沖釣りというと、船に乗っていく?」

「そうだ。今は貸し道具も揃っているし、気軽に乗れるぞ。今度の日曜日に一緒に行かないか? 会費も初回は俺が奢ってやるよ」

 悦雄の顔はにこやかだった。その時の顔は仕事の時、彼が見せる厳しい表情とはまるで違っていた。いかにも愉快そうに野地を誘ったのである。

 野地はそんな悦雄の表情に吸い込まれるようにして「はい、行きます」と返事をした。

「初心者が行くんじゃあ、小物釣り、イシモチことシログチで決定だな」

 悦雄が勝ち誇ったように田崎を見た。田崎は呆れ顔で悦雄を眺めている。

「まったく、お前って奴は、いつも強引なんだから」

 だが、田崎もすぐに笑った。

「さあ、仕事だ」

 悦雄が野地の肩を叩く。その表情はいつもの厳しい係長の顔に戻っていた。そんな二人を田崎は微笑んで見送ると、ポケットに手を突っ込んで廊下を歩き始めた。


 日曜日の朝、渡辺家は早くから明かりが点いていた。もちろん、釣り支度のためである。そんな渡辺家の居間を覗いてみよう。

「おはよう。昨夜は眠れたかい?」

 悦雄が目をこすっている良雄に声を掛けた。悦雄は随分と爽快な顔をしている。いや、悦雄だけではない。房子もまた、爽やかな笑顔をしているではないか。

「何か、興奮して眠れなくってさ」

 良雄があくびをしながら答えた。パジャマ姿の良雄はまだ、小学校六年生のあどけなさを漂わせている。

「寝不足は船酔いになりやすいぞ。行きの車の中で寝ていけ」

 そう言いながら悦雄がおにぎりを頬張った。大きな口を開けて、さも旨そうに頬張る。昨夜、房子が握っておいたおにぎりだ。唇に海苔が張り付いた。

「ほら、良雄もおにぎり食べて、着替えなさい」

 房子が良雄におにぎりを差し出す。良雄がゆっくりとした手の動きで、それを受け取った。

「いただきます」

「しっかり食べておけ。空腹も船酔いしやすいぞ」

 悦雄の手には液体タイプの酔い止めが握られていた。良雄のために購入しておいたのだ。

「今日のお昼はサンドイッチだからね」

 房子がサンドイッチをクーラーの中に仕舞う。クーラーの横にはポットが置かれていた。その中には温かい紅茶が入っている。随分と風の冷たくなったこの季節には、温かい飲み物が嬉しい。ひとつのポットを家族で分けながら飲む。それもささやかな幸だと思う渡辺家であった。 


 船宿「黒川釣船店」は金沢八景にあった。金沢八景は釣り宿がひしめく、言わば「釣り宿銀座」のようなものだ。秋口になると、イシモチことシログチを釣り物の主体に看板を掲げる宿が少なくない。とは言え、イシモチを専門に沖釣りで狙うのは東京湾くらいだろうか。

 釣り宿には既に竿鱗会のメンバーたちが集まっていた。皆、準備に余念がなく、気迫が伝わってくる。たかが小物釣りとは言え、釣りは釣りなのである。

 宿の受付の隅の方で、小さくなっている男がいた。野地だ。錚々たるメンバーに気圧されているのだろう。可愛そうにも、肩を窄めているではないか。

「みんな、おはよう」

 悦雄が笑顔を振り撒きながら、船宿へ入っていった。後に房子と良雄が続く。房子と良雄も釣りの猛者連に少し萎縮気味だ。

「今日はよろしく頼むよ。あんたがシログチがいいって言ったんだから」

 田崎がにこやかな笑顔で悦雄に近寄ってきた。

「ああ、大丈夫だよ。情報では群れも固まりかけているらしい。潮さえ良ければ大漁だよ」

 悦雄が田崎の肩をポンと叩いた。そして、隅の方で小さくなっている野地に目をやる。

「よう、おはよう。来たか。沖釣りは楽しいぞ」

「おはようございます。何か、いつもの係長と顔付きがまるで違いますね」

「そうか? いつも俺は恵比須顔だぞ」

 悦雄が豪快に笑った。そして、後ろで恐縮している房子と良雄をみんなに紹介した。すると、猛者連たちは案外と気さくな笑顔を向けたものである。

 房子と良雄の顔から、少し強ばりが解けた。

「もう手続きは済ませているから、道具は船に積み込んで」

 田崎が悦雄に促す。

「場所は?」

「家族連れなんだし、胴の間でいいだろ? 可愛い後輩も面倒見てやれよ」

 胴の間とは船のちょうど中央で、船長の操舵室の前付近を指す。沖釣りで釣り師が争って席取りをする場所は、船尾のトモか船首近くのミヨシだ。胴の間はどちらかと言うと初心者向の席で、熟練者には歓迎されない。それでも、房子と良雄という家族連れには、船長の目も行き届き、もってこいの席だ。それに、今日は声を掛けた手前、悦雄は野地の面倒も見なければならなかった。

 船は船つき場で、その身を横たえていた。静かに出航の時を待つ釣り船は、小型ながらもどこか威厳がある。それは、時に荒波をかいくぐってきた歴戦の勇者の風格とでも言おうか。

 悦雄たちはその船の胴の間に荷物を置いた。

「今日は凪ですよ」

 操舵室から船長が顔を覗かせた。頭に手ぬぐいを巻いた、いかにも職人気質の船長だ。

 この釣り宿はイシモチ釣りにこだわっており、夏場の一時期を除き、ほぼ周年イシモチを狙っている。

「初心者には凪がいいね。海が荒れると船酔いしやすいからな」

 悦雄が振り返りながら笑顔を見せた。その手はもう、釣竿に伸びている。釣りの上手い人に限って支度は早いものである。

 悦雄は房子や良雄の仕掛けもセットする。見れば、野地は自分でセットしているではないか。さすが、以前にフライフィッシングを齧ったことだけのことはある。

 続々と釣り人が船に集まってきた。みんな、猛者連なのだが、和気あいあいと、和やかなムードなのが仕立船のよいところだ。

「今日の竿頭は平さんだべー」

「小物なら、負けないぜ」

「そうだよな。お前は大物に限っていつも逃がすもんな」

「あはははは」

 そんな会話が気持ち良い。

 電車で来ている連中は、早くもビールを空けている。

「なんだ、もう船酔いの準備か?」

 悦雄の気の利いたジョークで、船はまた笑いに包まれる。

「何か、今日の係長はいつもと違いますね」

 野地がにこやかに笑いながら呟いた。

「いつもは鬼だって言いたいんだろう?」

 悦雄のその言葉に、野地が苦笑した。

「お父さん、職場では鬼なの?」

 良雄が「信じられない」と言いたげな顔をして、会話に割り込んできた。

「そう、鬼の保護係長、渡辺悦雄って有名なんだよ」

 悦雄はやや自虐的に笑った。

「でもね。君のお父さんを尊敬している人は多いんだよ。僕もその一人だからね」

 野地がすかさず、悦雄を援護した。

「やめろよ。恥ずかしいじゃないか」

「ちゃんと筋は通すし、部下のフォローもする。だから我々はいつも大船に乗ったつもりで仕事ができるんですよ」

「今日は釣りだぞ。仕事の話はなし!」

 悦雄が照れを隠すように叫ぶ。

 良雄は父親の意外な一面を垣間見たのだろう「ふーん」と興味深そうに頷いている。房子はその横で苦笑を漏らしていた。

「なんだよ、母さん」

「あなた、相変わらずなのね」

「人間、そうは変わらんよ」

 そんな会話をしていると、船のエンジンがアイドリングを始めた。

 ドルルルルル。

 腹の底に響くようなエンジンの音が心地よい。

「はい。それではこれより出船します。航程は十分くらいです」

 船長のアナウンスが流れ、船はゆっくりと桟橋を離れる。船の下ではエンジンより巻き返す海水が、複雑な渦となっては消えていった。やがて、それは期待を乗せた白泡へと変わっていく。

 金沢八景の朝の風は、何物にも代え難い清々しさがあった。


 船は橋を二つ潜り、東京湾の海原へと乗り出す。そこで船は一旦、停止し、スパンカーと呼ばれる帆を張る。それからいよいよ、本格的な出航である。

 左手に八景島シーパラダイスのジェットコースターを眺めると、右手には大きな造船所のその向こうに、寝坊してきた太陽が燦々と輝いているではないか。

 波はない。船はフルスロットルで駆け抜けていくが、飛沫が客にかかることも稀だ。絶好の釣り日和である。


 船は沖に出て十分たらずで、減速し、旋回を始めた。赤灯沖と呼ばれる、イシモチのポイントだ。

 船長は潮を読みながら、巧みな操船技術を駆使して、魚の群れの上へと船を誘導する。

 今の船には魚群探知機が付いている。昔は経験と勘だけに頼らざるを得なかった魚の居場所も、こうして見つけることができるのだ。しかし、魚がいるからと言って、必ずしも釣れるとは限らない。そこはやはり経験がいる。船長にしても、広い海の中を闇雲に捜し回っているのではない。長年の経験と知恵があってこそである。

 船が数回、旋回すると船長がキャビンから顔を覗かせた。

「はい、どうぞ。底付近に反応が出ていますからね。仕掛けを落としたら、しばらく馴染ませて、アタリがなかったら、ゆっくりしゃくるように誘ってみてください」

 その声を合図に、皆、一斉に仕掛けを海中へと投入した。

 悦雄は仕掛けの投入を見送り、房子と良雄に餌を付けてやる。餌はアオイソメだ。ムカデを小さくして、緑色にしたような生物を想像していただければわかりやすいだろう。

「さあ、クラッチを切って」

「クラッチって何よ?」

 悦雄がそう言っても、房子は釣り用語がわからず、もたついていた。

「お母さん、リールのレバーだよ。そこを押すんだよ」

 言われるがままに、クラッチを切ると、緑色のムカデは踊りながら海底へと沈んでいく。

 見れば、野地の竿先が早くも震えていた。野地がすかさず合わせを入れる。釣りでは「合わせ」という動作がある。魚が釣り針に掛かった時、竿を立てるものだ。

「あーあ、野地、それスカだぞ」

 悦雄がほくそ笑みながら呟いた。

「あれー、あれほど激しくアタッたのになぁ」

「イシモチは向こう合わせの釣りなんだよ。魚が掛かっても、しばらくは辛抱強く待たなきゃダメだ。少し糸を送り気味でもいいと思うぞ。そのくらいデリケートな魚なんだ」

「へえー」

 野地は感心したように頷きながら、仕掛けを上げた。そして餌を新鮮なアオイソメと交換する。

「イシモチって奴は餌の端からネチネチと少しずつ食っていくんで、なかなか食い込まないんだよ」

「まるで、うちの課長の小言ですね」

「あははは、そう言われてみれば、そうだな」

 今度は良雄の竿がガクガクと震えた。柔らかい竿先が海中に突き刺さりそうだ。

「あっ、お父さん、きてる、きてるっ!」

 良雄が叫んだ。

「まだだ!」

 悦雄も叫んだ。イシモチ釣りに使用する竿は胴調子と言って、竿の中央付近から曲がるように設計されている。だから、魚が掛かると、大きく曲がり込むのだ。逆に言えば、それは魚に違和感なく餌を食い込ませるには、もってこいの調子とも言える。

「よし。巻いてみろ」

 悦雄の指示で良雄がリールを巻く。

「魚が暴れたら慎重にゆっくりとな」

 その間にも竿先はグイグイと絞り込まれ、その軋む音が聞こえてきそうだ。水を切って上がってくる新素材のカラフルな編み糸が滴を垂らす。それが眩しく光る海面に小さな波紋をいくつも作った。

 やがて銀色の魚が水面下に見えてきた。それは光を嫌うように暴れまわりながら、もがき苦しんでいる。

「そのまま、抜き上げちゃえ」

 良雄は竿をグイと持ち上げると、仕掛けごと魚を抜き上げた。振り子のようになった魚は、キャビンへと勢いよく叩きつけられた。その魚を悦雄がムンズと掴む。

「わあ、イシモチだ!」

 良雄が嬉しそうに叫んだ。それは紛れも無く、先日の食卓を飾った魚だったのである。

「その魚、鳴いているわよ」

 房子が不思議がるように言った。耳をすませば、イシモチからグーグーという音が聞こえているではないか。

「そう。この魚はグーグー鳴くんだよ。この鳴き声が愚痴に聞こえるからグチって呼ばれるんだ」

 悦雄はそんな説明をしながら、釣り針を外した。そしてイシモチのエラブタを露出させると、おもむろにその付け根にハサミを入れた。そうしてイシモチをバケツの中へと放る。するとイシモチは放血しながら、白い腹を見せて浮かんだ。

「あーあ、残酷ーっ」

 良雄がその様を見て、思わず呟いたものである。

「どうせ食べる時には、腹を割くんだ。こうして血抜きしないと、生臭くなるんだよ。それに身も締まる」

「それでこの前のイシモチは締まりがなくて、生臭かったのね」

 房子は納得したように言った。

「そういうこと。釣ったイシモチは魚屋で買った物とは別物だよ」

 悦雄が良雄の仕掛けに装餌をしていた時である。

「私の竿にもきたみたい」

 見れば、房子の竿先が震えている。

「おっ、本当だ。まだだぞ。まだ」

 悦雄はリールを巻こうとしている房子を制した。

 コツン、コツン、ギュイーン。

 一気に竿先が絞り込まれた。

「よし、今だ。巻け!」

 房子がリールを巻き出す。竿は半月のようにしなり、海中に突き刺さっているではないか。

「デカそうだな」

「重いーっ!」

 そう言いながらも、房子の顔は満足そうに笑っている。

 海底から水面まで、その距離にして30メートル程。その間に、魚との駆け引きを存分に楽しむ。それは、釣り人だけが味わえる快楽に他ならない。

 一際大きな銀色が水面下で輝いた。

 悦雄はキャビンの上からタモ網を手にすると、魚を掬った。網に収められた魚は40センチはあろうかという、見事なイシモチだった。

「すごいじゃないか、母さん。こんな大物を釣って」

「まぐれよ。まぐれ」

 房子が照れるように笑った。

 イシモチはグーグーと愚痴をこぼしながら、釣り人を睨んでいる。そのイシモチに悦雄は容赦なくハサミを入れた。イシモチは観念しきれないような愚痴をこぼしつつ、バケツへと放られた。

 悦雄は良雄が釣ったイシモチをクーラーに移す。

「母さんの釣ったやつは、刺し身でもイケそうだな」

「イシモチのお刺し身なんて、滅多に食べられないものね」

「そうさ。釣り人だけの特権ってやつさ」

 悦雄の顔が自慢げだった。


 気が付けば船内、あちらこちらでイシモチが上がり始める。同時にグーグーという、少し滑稽とも思えるようなイシモチの愚痴が聞こえ出す。

「うわっ!」

 思わず叫んだのは野地だった。

「どうした?」

 ようやく自分の釣り支度を始めた悦雄が、目を野地にやった。

「このイシモチ、小魚を吐き出しましたよ。イシモチって、小魚も食べるんですねぇ」

「ほう」

 悦雄が珍しいものでも見るように、野地の釣ったイシモチと、それが吐き出した小魚を眺めた。

「本当だ。俺も噂には聞いていたけど、イシモチが小魚を吐き出したのを実際に見たのは、初めてだな」

「したり顔でちゃっかり弱い者を襲うところも課長そっくりですね」

「野地、お前、相当、課長のこと嫌いだろう?」

「わかります?」

「あははは、愚痴れ、愚痴れ。イシモチみたいによ。課長のネチっこい厭味は腹黒い『クログチ』だけど、俺たちのは水に流す真っ白な『シログチ』よ」

 悦雄が豪快に笑った。

「あら、それなら、私だって愚痴らせてもらうわよ」

 房子がニヤッと笑った。

「おお、今日はいい気分だから、どんなことだって水に流すぞ」

 悦雄が仕掛けを海中に放った。青とも緑とも言えない海面は太陽が反射し、生命の営みを感じさせる。それは目が眩みそうな欲しいほどきらびやかで、一時たりとも同じ形を留めてはいない。

「僕は受験勉強のために家庭が、学校生活が壊れていくような気がしてならないんだ。中学受験も水に流していいかな?」

 竿先を見つめていた良雄がボソッと呟いた。

「んー」

 悦雄と房子が顔を見合わせながら言葉に詰まった。野地はそんな親子を笑いながら眺めていた。

「確かに受験で歪みが出ているのは確かだ。でもせっかくここまで頑張ったんだから、受験は頑張れよ」

 悦雄が竿を煽り、誘いを入れながら言った。

「そうねえ……」

 房子も同意する。

「私立の中学に行けば、高校受験はしなくていいんだぞ。その分、家族の時間も増える」

 悦雄が満足そうに言った。次の瞬間、竿先を見つめていた良雄の目が輝いた。

「きたっ!」

 良雄は慌ててリールを巻く。

「ちぇっ、ずるいや。お父さんだけ、いつもこんな楽しい思いをして……」

「なら、中学に合格したら、毎月、釣りに連れていってやるっていうのはどうだ?」

「家族で釣りっていうのもいいわね」

 房子が同調する。良雄のモチベーションを高めるためにも、そして、家族の絆を取り戻すためにも釣りはもってこいのようだ。

 良雄がイシモチを抜き上げた。イシモチはグウグウと愚痴を漏らしている。悦雄が鰓に鋏を入れた。

「場所変えします。仕掛けを上げてください」

 船長のアナウンスが響く。皆、一斉に仕掛けを上げた。

 船が微速で動き出した時、悦雄はイシモチを一匹、捌き始めた。持参したまな板の上で、小出刃包丁を使い、器用に三枚におろしていく。腹骨をそぎ落とし、血合骨のところで左右に身を分ける。

「どうだ、これがシログチの刺身だ」

「あの鮮魚コーナーのイシモチと同じ魚?」

 房子が透き通る身を覗き込みながら、尋ねた。

「そうさ。ただ、これは釣り人だけが口にできる特権さ」

 悦雄は醤油まで用意していた。

「ああ、美味しい。鯛より上等かもしれないわ。甘みがあって」

「本当だ、旨い」

 イシモチの刺身を口にした房子と良雄が、目を丸くした。

「おう、野地も食ってみろ」

 野地が恐る恐る、イシモチの刺身を口に運ぶ。だが、すぐに驚嘆の表情へと変わる。

「旨いです」

「そうだろう。シログチは刺身が一番という人が多いんだ」

「愚痴を吐き出すと、旨い身になるんですかね」

「そうかもしれん。さあ、俺たちももっと愚痴を吐き出すぞ」

 悦雄が豪快に笑った。イシモチのつぶらな瞳が恨めしそうだった。


(了)

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