前編
「そんなこと言ったって、塾だから行けないんだ。仕方ないだろ!」
渡辺良雄は電話の受話器に向かって叫んだ。受話器の向こうからは、やはり何やら怒鳴り声が聞こえる。
「そんな、学校祭の準備なんかやってる暇はないんだ。俺には中学受験がかかってるんだよ!」
良雄は更に声を荒げる。受話器に唾がかかった。だが相手も負けてはいない。金切り声が居間に響いた。
「もう、これ以上、お前たちの相手はしていられないよ」
良雄をため息交じりにそう言うと、電話を一方的に切った。
ツーツーという音だけが、空しく受話器から聞こえる。
振り返ると時計は午後五時を指していた。
「いけね」
良雄は慌ててバッグの柄を握った。その仕草は正に「掻っ攫う」という表現がふさわしい。
良雄が握ったバッグには有名進学塾のマークが大きく描かれている。
バッグを背負った良雄が走る。その姿に、かつて陽が暮れるまで遊びほうけた子供の姿はない。
良雄の背中がコンビニエンスストアの中へと消えた。程なくして出てきた時には、口にパンを咥えていた。そして片手には栄養ドリンク。
良雄は有名進学塾のバッグを背負ったまま、人込みの雑踏の中へと消えていった。
「ただいまー」
背中を丸めて家の玄関を良雄がくぐったのは、二十二時を回ってからだった。
「お帰りなさい。遅くまで御苦労様ね」
母親の房子が居間から顔を覗かせた。
良雄は塾のバッグをおもむろに放ると、台所の食席に着いた。そこにあるのは、既に冷めたカレーライスだ。だるそうにスプーンを拾って、カレーを口に運ぶ。
特に美味くもなければ、不味くもない。何度も食べなれた味が、ただ冷えて口の中に広がるだけだ。ジャガイモが少し硬かった。それに豚肉もまるでガムだ。噛んでも、噛んでも飲み込めない。
カレーのエッセンスを加えた冷や飯。そんな表現がぴったりだった。それでも良雄は文句を言わぬ。ただ黙々と黄色い飯を口へ運ぶだけだ。
居間からはテレビの音が聞こえる。バラエティー番組だろうか。芸人とは呼べない芸のない芸に、房子が時折、軽薄な笑いを浮かべているのがわかる。
(ふん、あんな芸人のどこが……)
良雄は心の中で、お笑い芸人を嗤った。
良雄の学校でも、お笑い芸人は人気がある。時には良雄もそのネタを真似することもあった。
しかし、良雄はその芸を認めていたわけではなかった。ただの流行で廃れるのは時間の問題だと思っていたのである。自分で芸人のネタを真似しながらも、どこか値踏みをし、軽蔑していたのである。
芸人のネタはただ友人との会話をつなぐ道具に過ぎなかった。
(友達、友達かぁ……)
良雄は心の中で深くため息をついた。
「あ、そういえば、さっきクラスの風間君から電話があったわよ」
房子が良雄の背中にそう声を掛けた時、良雄はカレーライスを食べ終わっていた。
「学校祭のことだろ?」
皿をシンクに無造作に置きながら、良雄が尋ねた。
「そう。明日の放課後、クラスで準備するから手伝ってくれないかって言っていたんだけど、塾があるから無理って断っておいたわ」
「昼間も電話があって断ったんだ」
「そうよね。私だって、パートに働きに出て塾代稼いでいるんだから、中学受験に向けて頑張ってもらわなきゃ」
良雄はそれには答えず、塾のバッグを手にすると、二階へ上がろうと廊下へ出た。居間からは煎餅を齧る音が聞こえた。
するとそこで玄関が開いた。父親の悦雄の帰宅である。
「ただいま。良雄は今日も塾通いか。毎日、精が出るな」
悦雄の目尻が少し垂れている。その瞳は慈しみにも似た色を湛えていた。
「おかえり。父さんも毎日、残業大変だね」
良雄はボソッと呟くと、バッグを抱えて二階へと上がった。
良雄は自室のデスクへ向かうと、ワークブックを開いた。塾通いをしてなお、まだ勉強をしようというのか。
良雄のシャープペンシルを握る手が機械のように動いていく。確実に、決められた時間内に問題をこなし、回答を記入していくその様は勉学というより、技術に近いものがある。そう、良雄は受験というイベントを成功させるための技術者として養成されつつあるのだ。
一通りの流れをこなし、良雄がシャープペンシルを置く。その目はやや充血気味か。
「はあ」
少し疲れたのだろうか。良雄の口からため息が漏れた。両手で瞼を覆い、しばらく動かぬ。
こうした時、人間とは他の五感、特に聴覚などが鋭くなるものである。今、良雄の耳はあらゆる雑音を捉えていた。
「まったく、万年係長なんだから、残業なんてしなくてもよさそうなものを」
母親の房子の厭味たっぷりな愚痴が聞こえる。
「俺がいるから、うちの職場は成り立っているんだ。所詮、女のお前に言ってもわからんだろうがな」
「あら、私だってパートに出ていることをお忘れにならないでくださいましよ」
房子の声がヒステリックに引っ繰り返った。
「スーパーのレジ打ちと生活保護の仕事を一緒にしないでくれよ」
「そもそもあなたの稼ぎが少ないから、私が良雄の塾の費用を稼いでいるじゃない」
「その塾なんだが、わざわざ中学から私立に行かせる必要があるのか?」
その言葉に良雄自身がギクッとした。
「あなた、何を言い出すのよ。今更」
「何か、親の敷いたレールの上を歩いているようで、良雄自身の主体性が見えてこないんだよな」
良雄は耳も塞ぎたかった。だが、この会話の顛末を聞いていたい気もする。ヤジロベエのような危うさで、良雄の心は揺れ動いていた。
「あなたのように、公務員になれたはいいけど、万年係長じゃあ良雄だって可哀想ですからね。ちゃんと、いいところの大学に入って、いいところに就職して」
「意外とエリートはつまずくと後がないぞ。それより、あいつ自身はどう考えているんだろうか?」
「そりゃあ、受験するつもりでいますよ。今日だってクラス委員から学校祭の手伝いのお誘いがあったんだけど、断っていますからね」
「何? それを許したのかっ!」
悦雄の声が一段と大きくなった。ここで良雄はついに目ではなく、耳を塞いだ。
激しく言い合いをする父と母の声を遠くに聞きながら、やり過ごす。
塾のために学校祭の準備を断った自分の判断は、その時は正しかったと良雄は思っていた。しかし、現実にはそのことで父と母が言い合いをしている。
「くうぅぅぅぅ!」
良雄が歯を噛み締めた。歯痒く、こんな釈然としない思いはいつ以来だろうか。
ドスン、ドスン、ドスン!
無骨な足音が階段を上ってくる。
ドン、ドン!
荒々しく良雄の部屋のドアが叩かれる。
「良雄、ちょっと話がある。出てきなさい」
「学校祭のことだろう?」
良雄が扉を睨みながら言った。
「そうだ」
悦雄の剣幕は、荒い鼻息まで聞こえてきそうだった。
「それって、お父さんの意見、それともお母さんと話し合って折り合いをつけた意見?」
良雄は椅子から腰を上げることなく、扉の向こうにいる父親に向かって吐いた。
「えっ?」
父親が狼狽するのがわかった。空気が一瞬、濁ったのだ。和らいだのではない。意表な問いかけにより混ざった不純物が、張り詰めた空気を濁らせたのだ。
「親として統一した意見を持ってきてくれなきゃ、俺はお父さんとお母さんのどっちを信じればいいのかわからないじゃないかっ!」
良雄はそう言い捨てると、ベッドに身を投げた。
扉の向こうでは父親が呆気に取られた顔をして、立ち尽くしているのだろう。良雄には何となくそんな、弛んだ空気が伝わってくる。
ギーィッ、キューッ、ギーィッ。
軋んだ音を立てて、悦雄が階段を降りていく。心なしかその音が寂しげだ。まるでむせび泣くかのようなその音は、悦雄の心の嗚咽なのだろうか。
良雄はその音を聞いていた。胸に染みる音だった。心の隙間から入り込み、骨の髄まで染み入る音だった。
翌日の帰りのホームルームは、まるで裁判のようだった。
「渡辺だけだよ。学校祭に協力しないのは」
クラス委員の風間に言い寄られ、良雄は身体が5センチほど後ろにのけ反った。クラスのみんなも良雄に冷ややかな視線を向けている。
(嘘だろ、おい。及川や笹山も塾を優先するって言っていたじゃんかよ)
頼みの綱の及川や笹山は下を向いている。きっと風間の熱意に屈したのだろう。
「このままじゃ、君はみんなにクラスの一員として認めてもらえなくなるぞ。それでもいいのか?」
風間は更に詰め寄った。
「まあまあ、風間も熱くならないで」
担任の広瀬先生が風間を制した。しかし、広瀬先生とて必ずしも良雄の味方であるわけではなかった。
「なあ渡辺、学校祭と言ったら、クラス一丸となってやる行事だ。しかも今年は小学校生活最後の学校祭だ。みんな、思いを一つにしてやり遂げたいんだよ」
広瀬先生が良雄の肩に手をポンと置き、諭すように言った。
針のむしろだった。四面楚歌とはこのことを言うのかと、良雄はワークブックにあった四字熟語を思い出す。こうなっては協力せざるを得ない。本意ではないが、塾は諦めることにした良雄だった。
「テメエじゃ話になんねえんだよ。市長を出せ、市長を!」
市役所の一階の隅でわめいている男がいる。白髪でやや小太り、身なりは薄汚い。男から立ち込める臭い。それはアルコール臭だ。男は真っ昼間から酒を飲み、市役所の窓口で文句を言っているのだ。
「だから、そのことにつきましては私が担当ですから」
若い職員が窓口越しにそう言うが、男の威圧的な態度は変わらない。
「うるせえ。オメエは口答えするんじゃねえ。市長を出せって言ってんのがわかねえのか、この野郎!」
若い職員は肩をすくめ、チラリと後ろを見やる。その視線の行く先は係長、渡辺悦雄だった。
悦雄は男を無視していた。ただ寡黙にケースファイルという書類に目を落としている。
「野地君!」
悦雄が男の対応をしていた若い職員を呼び付けた。家では決して見せることのない、厳しい目付きだ。
「この新規ケースなんだが、就労中の発病だから障害年金とれるかもしれないね。精神保健福祉手帳2級所持だから障害者加算のイがつけられるよ」
野地が「はあ」と生返事を返す。
「ちょっと、コラァ! こっちはどうしてくれるんだ?」
業を煮やした男が、窓口をドンと叩いた。さすがに電算機を打っていた女性職員が「きゃっ!」と声を上げた。
「あほんだら。昼間から酔っ払って市役所の窓口、来る奴が税金で飯食えるわけないだろう!」
悦雄が立ち上がりながら、男を睨みつけた。悦雄はそのまま男に近づいていく。
「この野地はな、あんたのために何度も職安に一緒に行っただろう? そうしてやっと決まった仕事を蹴っておいて、生活保護を頂戴っていうのはおかしいんじゃない? 納税者の皆さん、納得しないよ。あんたの生活保護の申請が却下されたのは当然だね。最初に言ったでしょう。働ける場合は働きなさいって。それが条件だからね。今からでも頭下げて雇ってもらわなきゃ、あんた本当に日干しになっちゃうよ」
「じゃあ、あんたは俺に死ねって言うのか?」
「そうは言わないよ。でも自分で道は見つけるんだね。とにかくあんたは保護を受ける資格がない。現に生活に困ったと言いながらも、酒を飲む余裕があるんだからね」
「じゃあ、俺はどうすればいいんだよぉ」
男は急にベソをかきはじめた。悦雄は知っている。得てしてこのタイプの男は自暴自棄になりやすく、依存的であることを。そのくせにプライドだけは人より高かったりするから始末が悪い。実際、この男は生活保護を申請し、金銭がないと訴えるにも関わらず飲酒をしては市役所の窓口で苦情を訴えるのだ。野地はこの男のために職安に足繁く通い、仕事をみつけたのだが、それを理由もなく断ったのだ。
生活保護は生活に困窮するすべての国民を対象とはしているが、資産やその能力をすべて活用することが条件となっている。この男の場合、活用すべき稼働能力を恣意的に拒否したわけであるから、保護の申請が却下されても致し方ないと一般的には言えよう。生活保護とは国民の税金を無償で与え、自立に導かねばならない。その審査が厳しいのは当然のことである。
一見すると、悦雄の吐いた言葉は非情に厳しいように思える。しかし、これはこの男に真の自立へと導いているのだ。そして、これが福祉事務所の現場の真の意見なのである。
「だから、もう一度頭下げて雇ってもらうしかないね」
男のすすり泣く声が市役所のロビーの片隅に響いた。
悦雄は心得ているのだ。これ以上の恩情をかけても、男のためにはならないと。ここは男が自分自身の力で困難を脱出するより他はなかった。
悦雄は踵を返し、男に背を向けると、再び野地に尋ねる。
「この姉と共有名義の山林なんだけどね、法第63条による返還の対象となることを前置しておかないとならないね。その辺を注意してもう一度、新規記録を書き直してくれるかな?」
「えーと、障害年金と障害者加算のイ、それと山林の法第63条前置と。わかりました」
「ところで、明日の決裁で法定期限の14日だぞ」
「あ、いけね。また圧力団体から電話攻撃もらうところでした。今日も残業、がんばりまーす」
野地がややもすると卑屈な笑いを浮かべて背伸びをした。その背中を悦雄がドンと叩く。そして小声で囁いた。
「さっきみたいな奴は俺に任せていいよ」
「ありがとうございますっ!」
野地が深々と頭を下げた。悦雄はニヤニヤ笑いながら給湯室の方へ消えていった。
房子は愛想笑いを浮かべながらレジを打っていた。とは言ってもバーコードを機械が読み取り、客の売上額がレジに表示される。それを機械の手先となって復唱するのだ。
「1298円でございます」
小太りの中年女性が目を少し吊り上げて、房子を睨んだ。
「ちょっと、マグロの中落ち、特売の価格になってる?」
「はい、480円となっております」
房子はこのテの客の対策のために、目玉商品の価格くらいは覚えておくようにしていたのだ。
それでも中年女性はブツクサ何か言いながら、1300円を無造作に置いた。房子はそれを、恭しくでもなく、掻っ攫うようでもなく、レジの中へと放り込んでいく。レジから2円のお釣りとレシートが吐き出された。
「ありがとうございました」
口元は笑っているが、目は決して笑ってはいない。房子の笑顔は作り物だった。
房子はこれも良雄の将来のためと思って我慢しながらも働いている。しかし、最近はどの顔が自分の顔なのかも既にわからなくなっていた。
泣くこともなく、ただ作り笑いだけの生活が自分を蝕みかけているような気がした。
先日、ふとラジオから懐かしい曲が流れたことを思い出す。井上陽水の「灰色の指先」という曲だった。アルバム「White」に収録されたこの曲は、地味な印象だが強烈な個性を放っている。
房子は井上陽水のファンだった。個人的に「White」は好きなアルバムで、よく聴いた。
そんな歌詞の主人公に自分を重ねてみる。プレス加工で指紋もなくし、街の雑踏に紛れて見えなくなる歌の主人公と自分の境遇がどことなく似ていた。
時々、すべてを投げ出してしまいたい時がある。町中で大声を上げて叫び出したい衝動に駆られる時がある。
房子には今を変える「何か」が欲しかった。それは手を伸ばせば届くところにありそうだが、手を伸ばす勇気もなかった。「何か」とは、もしかしたら、表面上はすべて丸く収まっている今を、すべて壊してしまうもののような気がしたのである。それはやはり「White」に収録されている「青い闇の警告」のような気がしてならなかった。
「ありがとうございました」
房子はまた作り笑いで客を送り出す。
「いらっしゃいませ」
そしてまた、客を迎える。それはベルトコンベアに乗せられているのと、なんら変わりはなかった。
男子のみんなが一斉に段ボールを切り始めた。良雄も同じように、段ボールを切る。学校祭で良雄のクラスは「お化け屋敷」をすることになっていた。まずは迷路作りだ。女子は衣裳を作ったりしている。
「渡辺は最後まで抵抗したから『ぬらりひょん』でもやってもらうか?」
風間が笑いながら言った。するとすぐに「じゃあ、頭を丸めないと」と言う奴がいる。
クラス中が爆笑の渦になった。
良雄は一瞬、ムカッときたが、今その態度を表に出せば損をするのはわかっていた。
「坊主頭なら野球をやってる奴に頼めよ。俺はもっと恐ろしいのをやってやるぜ」
「恐ろしいのって何だい?」
風間が興味深そうに近寄ってきた。
「三丁目のヤクザ」
またクラス中に爆笑が起こった。
「まじめに考えろよ」
「じゃあ、俺の両親が秋田の出身だから、『なまはげ』なんていうのはどうだ? 暗がりの中で『悪い子はいねえがぁ』ってやったら、一、二年生なんかチビッちゃうよ」
「おお、それいいかもな。いつかテレビで観たことあるぞ」
「うちに小せえ人形さあるから、そいつさ持ってくんべ」
良雄が東北訛りのイントネーションでおどけると、また笑いが湧いた。この時、良雄は笑いが心地よかった。他人と話して笑うことなど、ここ数カ月もなかったような気がする。
みんなと一つの作業をし、一体感を得る。これは塾では味わえないことだ。塾は常に競争社会であり、周囲はすべて蹴落とすべき敵だった。交わすあいさつも、偽りの笑顔に過ぎない。
それが今はどうだ。そんなしがらみから解放され、心の底から笑い、人と人との触れ合いができる。そこから人は多くのことを学び、感じ取っていく。他のみんなにとっては当たり前のような時間が、良雄にとっては至福の時間となっていたのだ。
きっと広瀬先生も、これを良雄に体験させたかったに違いない。
「よし、『なまはげ』作りはまかしたぞ」
風間がニヤッと笑った。良雄もニヤッと笑い返した。
そんな二人のやりとりを広瀬先生は、少し遠い場所で微笑みながら眺めている。
悦雄は野地が新規の生活保護ファイルを仕上げるのを、ただひたすら待っていた。
野地は必死の形相でパソコンに向かっている。いや、野地だけではない。この市役所の生活福祉課のほとんどの課員が残業組だ。生活保護の現場とは常に残業の嵐なのだ。下手をすれば土日も出てくる者もいるくらいである。そこに安穏とした公務員の姿はなかった。
「宮川、下平さんの過払いどうするんだ? このままじゃ、地方自治法第159条による戻入か、積み上げ認定だぞ」
悦雄がボソッと呟いた。宮川と呼ばれた中年の職員がハッとして顔を上げる。机の上には数冊のケースファイルが散乱している。
「戻入や積み上げ認定は厳しいですね。何せ、冷蔵庫がぶっ壊れて新しいのを買いましたから」
「じゃあ、法第80条免除か? だったらきちんと検討でその理由を書いておけ」
「はい」
宮川がせわしなくケースファイルを引きずり出す。机の上がまた乱雑になった。
「よう」
その時、悦雄に親しげに声を掛ける者があった。悦雄が振り向くと同年配の男が立っている。
「おお、田崎、久しぶりだな」
「竿鱗会の件でちょっと」
「おお、もうそんな時期か?」
「俺、幹事なんだよ」
「ま、ここじゃ何だから、給湯室でも行こうか。面接室は嫌だろう?」
悦雄が豪快に笑った。田崎は照れたように笑い返す。
「みんな席をちょっと外すぞ」
そう言って悦雄は腰を上げた。心なしか課内の空気の緊張が少しほぐれたような印象を受ける。ただ、野地だけが悦雄の背中を目で追っていた。
房子の仕事はスーパーのゴミ出しで終わる。本当はレジ打ちのみの契約内容だったのだが、店長から命ぜられたのでは断るわけにもいかなかった。
大量のプラスチックのトレーや、ビニール袋、そして消費期限の切れた食材を廃棄する。食材を廃棄する度に房子は思う。
(今の日本って、どこかおかしくないかしら?)
食の安全を謳い、大手業界による賞味期限の改ざんが取り沙汰される昨今ではあるが、廃棄される食材を見ては、胸が痛むのだ。
(これで救える人はいないのかしら?)
以前はよく、ホームレスが消費期限切れの弁当を大量にもらいにきていた。しかし、スーパーの方針で今はそれも行っていない。
「奥さん、これ持っていきなよ」
房子の背後で声がした。房子はその声にハッとして振り返る。
そこに立っていたのは、鮮魚部門の若者だった。名前は知らぬが、顔は知っている。金色に染めた髪に、スラリとした体躯が今の若者らしい。それに、ちょいといい男だった。
その若者の手にはパック詰めされた銀色の魚が握られていた。
「この魚は?」
「イシモチだよ。馴染みがないのか、あまり出なくてね。足も速いし、もったいないから食べてよ。塩焼きでいいよ」
ちょうどゴミ出しを終えた房子は、若者の手から四匹のイシモチを受け取った。
若者の笑顔が爽やかだった。魚を受け取る時、指と指が触れた。その時、房子は指の毛細血管の末端まで、心臓の鼓動が響いているような気がした。
それは「灰色の指先」に「女」の生命を再び宿した瞬間でもあった。もっとも「青い闇の警告」でもあったのだが。
悦雄は給湯室で田崎と話を進めていた。
「もう竿鱗会のシーズンか。早いものだな。この前、六月にシロギス船を仕立てたばかりだと思っていたのに、もう十一月だものな」
竿鱗会とは市役所の釣り好きで作っているサークルで、年に二回ほど仕立船で沖釣りを楽しんでいる。無論、悦雄もメンバーの一人だ。田崎が今回、それの幹事だということである。
「そうなんだよ。走水のアジが釣りたいって言う人がいるんだけどさ。電動リールを持っていない人から反対意見も多くてね」
「そりゃ、そうだろう」
「かと言って、落ちギスにはまだちょっと早いし、ライトタックルアジなんかどうかと思うんだけど、お前の意見も聞きたくてさ」
「そうだなあ」
悦雄が腕組みをして考え出した。しかし、机に向かっている時の深刻さはない。
「係長、新規のケースファイル、できました!」
そこへ晴れ晴れとした表情の野地が飛び込んできた。
「悪い。一晩、考えさせてくれ。田崎は今、下水道課だったよな。内線は何番だ?」
「386」
「じゃあ明日、電話するよ」
悦雄の足がもう自分の机の方へ向きかけていた。
「悪いな、邪魔しちゃって」
その田崎の声はもう、悦雄の耳には入っていなかった。何やら野地と話をしている。そんな悦雄の背中を、田崎は笑いながらも、優しい目で見送った。




