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ラシア軍との戦闘趨勢そして終結 -1926年8月-

 樺太方面の戦線は以下の通りになった。



 推定1個連隊クラスの航空兵(各国にて呼び方は違うが日本は便宜上そう名付けた)が飛来したと同時に着実に上陸部隊が接近していた。


 航空兵はおそらくある程度の戦場撹乱を行う腹づもりであると思われたが、タイフーンによる上陸部隊攻撃のための露払いとして先制撃破を行ったのちに旧式化していたASM-1空対艦ミサイルをはじめとしてなんでもかんでも上陸部隊の艦船に攻撃を加えた。


 推定5個師団はあったと思われる輸送艦の量であったが、旧式化し余っていた空対艦ミサイルをはじめとして比較的安価な対戦車ミサイルや対地ミサイルをこれでもかと叩き込んだ。


 それは北部航空方面隊がかき集めた対地・対艦ミサイルを全て消費するまで続いた。


 そうしてかき集めた対戦車ミサイルまでをも全て消費ししきってしまい、航空自衛隊のみで全てを海の藻屑にすると言う事はできなかった。


 5個師団のうち1個師団が壊滅状態となったが4個師団がそれなりの被害にあったものの、上陸に支障なしということで作戦を継続した。


 そして樺太に一部の部隊が着上陸を開始したその時。海上自衛隊の地方隊所属の艦艇が戦闘海域に到着したのだ。


 海上自衛隊は最も上陸部隊が脆弱である時間を狙ったのである。未だ着上陸を始めていない艦船を片っ端から主砲で撃沈させた。上陸した部隊への対処は友軍の誤射をすることを防ぐために対地上艦砲射撃はせず、友軍の要請があった時のみ行う。



 樺太に駐屯していた日本国連邦軍旧大日本帝国軍再編部隊は2個師団が着上陸した時を狙い攻撃を開始した。99式自走榴弾砲が後方から腰を据えて効力射を叩き込み続け、迫撃砲が発射され10式の120mm主砲が火を噴いた。


 そして樺太駐屯部隊は無理をせずに誘うかの如く急速に後方へと移動した。異様なほどの機動力に、ラシア軍の上陸部隊は急に聞こえなくなった砲声と銃声に疑問を抱いたがゆっくり、ゆっくりと前進を開始した。






 そしてしばらくしてゆっくりと前進していたその時、航空機らしきものが上空を飛行していた。そう、大澤飛行場のタイフーン戦闘機1個小隊が500lb通常爆弾を詰めるだけ積んで上陸部隊の上空を飛行していたのである。


 背筋が凍るような爆弾の音に身を強張らせる兵士たちだが無常にも爆弾が降り注ぐのだった。撤退をしたと思われた連邦軍であったが、実は航空攻撃を行うにあたり誤爆を防ぐため後方5kmに戦線を一時的に下げたのだ。


 そして爆撃が終わった後に再度はじまる榴弾砲の雨に、遂にラシア軍の上陸部隊の心が折れてしまった。


 ラシア軍にとって今回の戦争は侵略戦争であり、祖国大戦争のような防衛戦争ではなかったことも影響したのだろうか。



 海上自衛隊によって後方の補給も絶たれ、撤退の不可能。このような状況だと旧大日本帝国軍なら玉砕を選ぶだろうが、彼らはラシア人。降伏を選んだのだ。








 越境から一週間後の8月26日。朝鮮戦線では、3個師団が10個師団の圧力を受けていたこともあってかジリジリと後方に移動していた。だがラシア軍の被害も大きく3割以上の損耗を受けていた。だが、それに不安がった朝鮮州議会は州軍の派遣を決定した。しかし朝鮮州軍の装備は機械化こそしてあるものの機甲化戦力を保持しておらず対戦車火力も対戦車ロケット弾ほどしか有していないものだった。


 だが、万が一連邦軍が敗走することになれば今までの努力で育って来た経済基盤がぼろぼろになる事は容易に想像できた。だからこその州軍派遣だった。だが本音としては、樺太・千島州軍を兼ねる連邦軍第16旅団と朝鮮に駐留している連邦軍第12・13師団の活躍を羨ましく思った朝鮮州軍司令部の意向も混じっていたのだが。


 政治的な判断もあった。朝鮮が侵略されていると言う事で義勇兵が続々と集まる広義的な日本連邦の民意は無碍にできないと踏んでの事もあった。

 この要請に日本国政府は最初は渋ったものの、連邦軍全体で反抗攻撃される事は決定事項となっていたために最終的には朝鮮州軍の派遣が許可された。指揮系統は防衛総省の管轄へと一時的に編入される事になった。


 反抗作戦は戦闘開始より9日後の8月28日とされた。全域で航空支援や砲兵火力による圧力を加えながら反攻先鋒部隊がラシア軍の右翼の突破を航空支援もしくは砲火力による瞬間的な火力投射と10式戦車中隊によって戦線の一部分を一点突破、極めて優秀な機動力によって後方分断を行い補給線のさらなる破壊とソ連軍の士気低下、包囲を図る事が目的とされた。


 先鋒は第16普通科連隊を基幹とする連隊戦闘団であった。これに朝鮮共和国軍1個師団が追従し、戦果の拡大を図るものとされた。




———反抗作戦———


 反抗作戦実施に当たり、日本政府は在日米軍に対して日米安全保障条約を元として敵基地及び戦略目標の破壊を依頼した。グアム臨時アメリカ政府はこれを了承し、ラシア本国への爆撃にはグアムのB-52を持って行うとした。


 ラシア軍は日本側の反抗作戦にラシアは抵抗出来なかった。当時の航空機では到底迎撃できぬ高高度と速度で飛行するB-52に手も足も出なかったラシアは2日に及ぶ戦略爆撃機軍による爆撃で燃料弾薬を焼き尽くされていた。


 さらに情報の伝達が困難というのも大きい。補給路としても利用できる陸路は破壊され、鉄道網も寸断され、通信に電波を出せばもれなく巡航ミサイルが叩き込まれ、物資の集積所は米軍のB-52によって真っ先に燃やされた。

 天幕や人の集団が見かけられれば爆弾が降って来る。炊事に火を焚けば爆弾が降って来る。何もなくても、何処かには爆弾が降って来る。

 食料さえ少なく睡眠も取れやしない。寝ようとしても爆撃の音で叩き起こされる。この様な状況で即時、適切な連絡など出来る筈も無いというのが実情であった。多くの兵士が恐怖を味わった。

 さらに後方に位置した司令部ですら既に満足な食事を得られなくなっていては、将兵に献身を求めるなど出来る筈も無いのだ。


 それに追い討ちをかけるように、旧大日本帝国軍再編第12•13師団が突撃を敢行し、一部戦線の破壊に成功した。


 なお旧大日本帝国軍再編第12•13師団の突撃は当初計画されていなかったものであったが、自衛隊と第12・13師団長(旧第日本帝国軍人)との事前協議で、第12・13師団長が“我々大日本帝国軍人は突撃を敢行しさらなる戦果の拡大を示したいと考えている”と発言。考え直すように説得するも部下からの陳情で動いている彼らは部下のためにもと説得には応じる事はしなかった。


 そこで自衛隊の幹部は条件付きでそれを認めたのだった。




 そして、全ての方向から火力の圧迫を受けたラシア軍の朝鮮戦線は限界的な状況であるため撤退命令を事前に発していたが、伝達できないために平文で降伏命令を発し、日本連邦軍およびラシア軍向けに降伏との旨を送ったのである。





 これにてラシア軍と日本国連邦軍との武力衝突は終結を迎えた。第12・13師団の師団長は突撃が許される事を条件にラシア国境を超えない事を約束させられていた。


 その事もあってか旧大日本帝国軍の暴走の可能性を少なくしていたのだ。最終的に旧大日本帝国軍再編部隊は不穏な雰囲気を微塵に感じさせもしなかった。


 連日報道された日本国連邦軍とラシア軍の武力衝突はわずか10日で、進行して来た極東ラシア軍の降伏という形で終焉を迎えた。


 ちなみに視聴率がよく取れたのは派手な火力の投射が行われた地上戦だったりする。






 そして、この日本国の戦争を主導したラシアの政治に変化が訪れた。モスコー(モスクワ)で政治的な問題が起きた。戦争を主導したラシア首相スターリンに対するトロツキー派の反抗である。

 首相スターリン自身の戦争指導能力に対する深刻な疑問符が付く事になった為にラシアの指導者としての適性が問われる形となったのだ。

 こうなっては戦争どころでは無くなってくる。

 スターリンは日本との講和の道を探りはじめた。






———観戦武官の10日間———

 日本連邦軍とラシア軍の武力衝突が始まる二週間前に樺太入りした、日本へと派遣された観戦武官たちがまず驚いたのは、日本の道路事情だった。全てをアスファルト等で舗装され、主要の道路では舗装道路に痛みが見られない事もあった。

 そして車だった。欧米列強が製造している自動車とは比較にならない乗り心地の車、バス、そしてトラック、そしてその数だった。

 この世界でのアメリア以外の全ての国家の常識を遥かに超えた数の車が、東京から北海道、そして樺太にまで動いていた。

 ジェット化された航空機、樺太と北海道を結ぶ航空機でようやっとプロペラ機だと思えばターボプロップと言うジェットエンジンの亜種であると聞かされまたまた驚愕し。行きかう大型船舶、発達した鉄道網と近未来を感じさせる銀色に輝く鉄道車両。その全てがおよそ100年に及ぶ時代の差と言う物を理解させるものだった。


 そして樺太の戦線で彼らが目にしたのは圧倒的な火力だった。圧倒的な航空戦力だった。圧倒的な海洋戦力だった。異様な程の機動力と展開力だった。そして、それを支える補給も相当なものだと考えていた。そして彼らは、彼らが目にして聞いた事を全て母国の戦力の強化にするべく努力するのだった。


 なお、後年にアメリアにて日本国政府の協力で“観戦武官の10日間戦争”と言う題名で映画化されそれなりに人気を博した。なおその見どころは日本連邦軍の当時の記録映像(連邦軍や日本国政府がデータを保有)を使用した戦闘場面であった。





———停戦、そして終戦———


 政治的な混乱を重く見たラシア国王(系譜で言うとロシア皇帝のニコライとほぼ同じ系譜である)は日本の終戦と政治的混乱を収めるよう首相スターリンに苦言を呈した。

 ラシアは帝政ではなくなり皇帝から国王へとなり権力のほとんどが首相へと移譲されたが、国家的権威である事には変わらないのである。

 国王はこの世界において極めて重要な外交カードなのだ。



 スターリンは事実政治的な混乱が拍車がかかっている事を自分で認めていたが、日本が静寂を保っていた事もスターリンの奥底に仕舞われた猜疑心が疼き始めていた。


 その時ラシア軍のトップからとある話を耳打ちされた。



“日本軍に動きが見られる“


 この場合の日本軍は日本国連邦軍のことを指す。そして、動きと言うのは朝鮮方面の連邦軍の活動が活発になっていることを示している。


 


 それによってさらに肝を冷やしたスターリンは遂にフランシェ王国に仲介をしてほしい事をフランシェ大使に告げた。


 フランシェはそれに対してある程度の見返りを条件に仲介を行う事を了承した。ここでフランシェ王国連邦を引っ張って来たのには意味がある。ラシアに壁意が少なく比較的有効で且つ日本とある程度交流がある国家がフランシェくらいしか無かったからである。


 アメリアは日ラ戦争時に仲介を手助けした見返りとして日本から満州の利権を大金を持って購入していた。そして満州とアメリアに利権がある満州と隣り合わせのラシアは準仮想敵国であるため無理。大英帝国は外交なぞしよう物ならコロコロ転がされるのは此方側。



 だからこそフランシェ王国に仲介を頼んだのである。


 講和会議はフランシェの首都パリ宮殿で行われた。講和内容としては以下のとおりである。


・戦費賠償、戦場となった国土の原状回復賠償

・オホーツク海での日本の優先権の承認


 以下の通りとなった。日本国内からは相手から喧嘩を吹っかけてきたんだから甘すぎるという意見もあったが、日本国政府はあまり吹っかてまた牙をむいてくると困るという立場をとっていた。また、支払いが滞るのも困るという物だった。


 ともあれ日本とラシアの戦争は終結を迎えた。武力衝突に関しては10日間で終結を迎えたため【10日間戦争】もしくは【第1次日ラ戦争】と呼ばれた。


 ちなみに連邦軍の朝鮮駐留部隊に動きがあったのは朝鮮駐留第12・13師団が朝鮮州軍の教官役として大量の訓練弾と燃料を日本から取り寄せていただけである。

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