地獄
「ブレンダン、そこにいるのでしょう?出てきなさい。」
顔を上げず、ルノアリアはそう言い放った。
その瞬間、俺の全身が総毛立ち、ほぼ無意識的に俺は扉の方へとジャンプしていた。
いや、俺に宿った謎の力で俺は一足飛びに十メートル程飛んで扉の前に立っていた。
扉の前で改めて先ほどまで俺がいた場所を見る。
そこには一人の男が立っていた。
馬鹿な、さっきまでこの部屋には俺とルノアリアしかいなかったはずなのに!
「異邦者様、この者は私の護衛ですので、どうぞお戻りください。」
ルノアリアはそう言ったが、俺には到底戻る気にはなれなかった。
その位の殺気をその男は放っている。
それでも俺は恐る恐るテーブルに戻った。
「全くもう、着いてこなくていいとあれほど言ったのに!」
戻るとルノアリアが男に抗議の声を上げていた。
その声は怒っていると同時に困っているようでもあり、同時に親にわがままを言っている娘のようにも聞こえた。
「申し訳ありません、異邦者殿。」
俺が近づくと男は右手を胸元にあてて一礼した。
背の高い男だった。
一九〇センチはあるだろうか、一七五センチの俺よりも頭一つ分高い。
年齢は五十代くらいだと思われるがもっと言ってるようにも見える。
紺色の上着にズボンは濃い灰色、ブーツは黒。
この世界の事はまだよく知らないが、おそらく目立たない格好なのだろう。
服越しにもわかる位余分な脂肪など一切ないような細身で、短めの黒い髪は後ろに撫でつけられ、髭の生えていない頬はこけ、まるで風の吹きすさぶ荒野にたった一本立っている木のような印象の男だった。
暗い灰色の眼光は鋭く、謝罪はしているが眼には一切の感情が読み取れなかった。
むしろ一瞬でも気を許したその瞬間に喉を掻き切られそうな眼差しだ。
「……さっきから感じていた視線は貴方…あんただったのか…」
怖気づき、つい丁寧語になってしまいそうなのを必死で隠す。
「はっ。
殿下は危険はないとおっしゃいましたが、やはり貴方様は異邦からやってこられた身であり、どのような素性かも分からなかった故、万が一があってはと僭越ながら影より殿下を護らせていただきました。」
「もう、ブレンダンったら、異邦者様は大丈夫だと言ってるのに…申し訳ありません異邦者様、すぐに下がらせますから。」
ルノアリアはそう謝罪してブレンダンという男に下がるように言いつけた。
ブレンダンは再び俺に一礼すると静かに部屋を出ていった。
全く足音がしなかった。
「申し訳ありません、彼、ブレンダンは私が幼いころから護衛をしてもらっているのです。
少々過保護な部分がございまして、今日も大丈夫だと言ったのですが聞き入れなくて……」
ルノアリアが再び謝ってきた。
「い、いや……いいんだ……」
俺はむにゃむにゃと誤魔化したが、今になって背筋に汗がしたたり落ちていた。
後ろにいた事を全く気付かなかった。
この世界に来た時に偶然なのかなんなのか、普通の人間には感知できない程の俊敏さを身に付けたが果たしてあの男に狙われたら生きていけるのか?
ブレンダンの登場でなんだか気分も落ちてしまい、俺は挨拶もそこそこに自室(と言っていいのかわからないが)に戻ってベッドに横たわった。
とりあえず当面の生活は確保できた。
しかしこれからどうなるのかさっぱりわからないという事実は厳然として目の前に立ちはだかっている。
ここミッドネアの危機は相変わらずあるし、俺以外に他の人間は召喚できない。
今は王宮で面倒を見てくれているが、この状況はいつ変化が起こるか分からないし、その変化は間違いなく歓迎したくないものになるだろう。
その時にどう動くか、今から考えておかないと……
寝付けないと思っていたが、一日で色んな事が起きたための心労か食事で満腹になったからか俺はいつの間にか眠っていた。
…………!
急に背筋に冷たいものが走り、俺は目を覚ますなり起き上がった。
が、起き上がろうとしたその瞬間、暗闇の中で俺の目が突然塞がれ、凄い力でベッドの上に押し付けられた。
「動くな。」
力任せに起き上がろうとした俺の耳元に冷たい声が響き、俺はその声を聴くなり脱力した。
この声は本気だ。
起き上がった瞬間に俺は殺される。
向けられた殺意が実体を持って俺の体を貫いているようだった。
目は相変わらず手で塞がれていて周囲は全く見えない。
耳は塞がれていないが音は全く聞こえず、俺の心臓の鼓動だけが100m走をした後のように鳴っている。
徐々に落ち着きを取り戻した俺は首筋に何かが当たっている事に気付き、その瞬間に冷や汗が再びどっと流れた。
首筋に当たっているのはおそらくナイフか何か刃物で間違いないだろう。
今までそこにある事すら気付かなかった。
仮に俺の身に着いた超加速を使えたとしても、このナイフが俺の首筋に埋まるのを防げるとは思えない。
「一度しか言わないからよく聞け。」
再び俺の耳元で男の声がした。
「明日、女王殿下に断って城を出、二度と戻ってくるな。
断れば今ここで殺す。」
この声は、先ほど食堂にいた男、女王の護衛をしているという男、ブレンダンだ。
護国のために召喚されそれでも国を護る気のない俺を不確定要素として排除しに来たのか。
俺の体に緊張が走る。
声を出そうとしても口から出るのは浅い呼吸だけだ。
「俺の言う事を理解したか?理解したのなら歯を二回鳴らせ。」
ブレンダンの声が続いた。
俺はなおも声を出そうとしたが、顎がまるで別の意思を持ってるように勝手に震えている。
「いいか、理解したなら歯を二回鳴らせ。」
「……そ…………」
やっとのことで声が出た。
「……それは……できない…………ません……」
俺の目を塞いでいる手に力がこもった。
「何故だ。
その理由を離せ。」
ブレンダンの言葉は簡潔にして明瞭、しかし有無を言わせない響きがこもっている。
「……今……ここを出ていけば、俺には生きる術がない……んです…………
この世界がどういう所なのか…………何をしていったらいいのか分からないんです。 そうなれば、俺は何としてでも…………それこそ犯罪をしてでも生きていかなくちゃいけない……です…………
というか、犯罪に走るしか生きる術がない……です。
俺に宿った力を使えば、悪党としてそれなりの地位にはつけるはずです。
でもそうなるといずれ女王と敵対する事になる。
それはしたくないし、そうしないためにもまずはこの世界の事を知っておきたいんです。
二か月か三カ月、いや、一カ月ここに住ませてもらえればその間にこの世界で真っ当に生きていけるだけの知識と経験を積めます。
そうしたら、この城から出ていって戻ってきません。
それまで、どうかここに居させてください。」
俺は必死に言葉を繋げた。
本当に必死だった。
今、本当に生死の境にいる、その実感があった。
しかし、死の恐怖と共に俺の中に不思議な落ち着きがあった。
死ぬかもしれないという恐怖が高まり過ぎて心のどこかが機能を止めたのかもしれない。
ともかく、話す事に集中したせいか先ほどのような緊張は無くなっていた。
気が付けばブレンダンは動きを止めていた。
俺の言った意味を考えていたのだろう。
落ち着きを取り戻したせいか、俺は周囲にこの男以外の人間がいる気配を感じていた。
四人、いや五人入るだろうか。
全く物音がしないが、俺は間違いなく囲まれていた。
「一カ月だ。その後も城に留まるようだったら今度は殺す。」
その言葉と共に、首筋にあてられていた冷たい感触が消えた。
「そのまま目をつぶっていろ。目を開ければ殺す。」
ブレンダンは言葉を続け、顔に当てられていた手の感触も消えた。
しばらくして部屋から人の気配が消えたが、それでも俺は目をつぶり続けていた。
どの位時が経ったのかか分からないが、ゆっくりと目を開けた時、部屋の中はまるで何も起きなかったかのように静まり返っていた。
ベッドの側にある机も、部屋に隅にある花瓶もそのままだ。
何者かがいたという痕跡は何もない。
だが、俺の首筋にうっすらと付いたナイフの切り傷が先ほどの事は夢ではないと告げている。
首の切り傷もおそらくシーツを血で汚さないためだろう、血が出ない程度にうすく付いているだけだ。
それがブレンダンという男の恐ろしさを物語っている。
俺はベッドから飛び起き、開いていた窓を閉じて鍵をかけて取っ手をタオルで縛り上げ、部屋の扉の取っ手にも椅子を立てかけてつっかいにした。
それが終わってベッドに横たわり、そこでようやく全身が震え出した。
さっき、俺は生涯で一番死に近い位置にいた。
それが事実として認識できた。
今夜、俺が殺されなかったのはおそらく食堂でルノアリアに手を出さないようにと言われたからだろう。
もしあの時ルノアリアが何も言っていなかったらおそらく俺は今頃一切の痕跡を残さずこの世から消えていたはずだ。
ルノアリアには夜のうちに逃げたようだとだけ告げられて。
「は……はは……ははは…………はははははははあはははあはははは!」
死を免れた安堵からか、俺の口から止まらない笑い声が溢れた。
笑うと共に、俺の目から涙がこぼれてきた。
これが、これが俺のこれから生きる世界なのか。
あの男の向けた殺意に比べたら会社のパワハラや取引先の恫喝なんて春の日差しだ。
命がコンビニのレシートよりも薄い世界、それがブラック企業から召喚によって解放された俺の生きる世界だった。
ここは地獄だ。