月夜
「夜分にすみません……少し、お話がしたくて……」
そう言ってルノアは俺を見上げた。
普段のドレスとは違い、今は領主が用意したであろう簡素な寝巻を着ている。
いつもは頭の上で巻きあげている燃えるような金髪もおろしている。
その姿は城にいる時の近寄りがたい美しさとは違い、一人の女の子だった。
「あ、ああ……じゃあ、中に入ってくれ。」
何故か目を合わせられず、俺の目は宙を泳ぐ。
ルノアが部屋に入ると俺は扉を閉め、椅子を差し出した。
俺自身はベッドに腰かける。
「………。」
「……………。」
……沈黙が気まずい!
何かを話さなくちゃいけないんだろうが、何を話したらいいのやら。
「……綺麗な……月。」
その時ルノアがふと口を開いた。
その言葉に開かれていた窓を振り向くと、確かに雲一つない空に巨大な満月が浮かんでいる。
「今日は満月だったんだな。」
「入秋の富月ですね。この季節に綺麗に満月が見えるとその年は豊作になると言われているんです。」
いつの間にかルノアが俺の隣に腰かけていた。
「っ!」
慌てて距離を置く。
「?」
それを見て不思議そうな顔をするルノア。
この姫様はどうも人との距離感を分かってないふしがある。
夜に、ベッドの上で、裸の上に一枚だけ着た状態で男の隣に無防備に寄ってくるもんじゃないでしょ!
「い、いや……ああっ確かに綺麗な月だよなあっ!はは、ははははっ」
作り笑いを浮かべながら月を見上げてみたが、はっきり言ってそれどころではない。
月明かりにうっすら照らされたルノアの肌は雪花石膏のようにほの白く輝いている。
ほつれ毛がかかったうなじからゆったりとした稜線の首筋、たおやかな影を作る鎖骨から寝巻の襟元に伸びていく胸元……
知らず知らずのうちに俺は生唾を飲み込む。
「すいません。」
唐突にルノアがそう言った。
「国のためとはいえ、貴方を危険に晒すことになってしまいました。」
「ああ、その事か。それはもういいって。
自分の決めたことだ、ルノアが気にする事じゃないって。」
「でもっ!我が国、いいえ私は貴方に何もしていないのに!それどころか、私は貴方を元いた世界から無理やり連れてきてしまった!私は貴方にどうやって恩を返せばいいのか!」
「おいおい、恩も何も、まだ始まっちゃいない。やるのは明日だし、正直上手くいくかどうかもわから……いや、絶対に上手くいくけど、とにかくまだ恩になるような事は何もしちゃいないぞ。」
いいえ、とルノアは首を振った。
「今、この場にいてくれている、それだけでもう私にとっては十分です。」
「それだけじゃありません、あの会議の時も……仁志様がいてくれなければ、今ここにいる事すらできなかったはずです。それ程の恩があるのに、私は仁志様には何もしていない。おっしゃってください!私に出来る事があるなら、何でもいたします!」
そう言ってルノアは俺ににじり寄ってきた。
やばいやばいやばい。
ゆったりした寝巻の襟から覗く豊かな双丘が月あかりにほの白く輝いている。
目を離そうったって無理な話だ。
俺は生唾を飲み込んだ。
何でもするって事は、つまり…………
その時ルノアの手が俺の服を掴んだ。
「私は……私は、何をしたらいいんですか……?」
そう言って見上げるルノアの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
俺の服を掴む手が微かに震えている。
俺は分かってしまった。
彼女は怯えているのだ。
この国の未来が、明日決するといってもいい。
その全責任が彼女の肩にかかっている。
常人ならおかしくなっても不思議じゃない程の重圧だ。
ここに来たのは、逃避なのだ。
おそらく、女王である事もこの国の未来も一時忘れたいと、半ば自暴自棄になってもいるのだろう。
だがそれは問題じゃない。
これだけの重圧ならそうなってもおかしくないからだ。
重要なのは、彼女が逃避先として俺を選んだことだ。
布津野仁志、お前はそんな彼女に何をできる?何をする?
俺は震えるルノアの手を掴んだ。
「心配すんなって。明日は絶対に上手くいく、戦争なんて俺が起こさせない。」
「でも……」
心配そうに見上げるルノア。
「大丈夫、戦争ってのは金も時間もかかるんだ。今回来た連中はまだ攻めてきてないだろ?つまり、今のところ奴らに戦争を起こす気はないんだ。」
「連中の目的はこの国に入る口実を作る事、おそらく本格的に戦争を起こすのはまだ先の計画なんだ。だから今のうちにこの国に攻めるのは労力に見合わないと思わせるのさ。」
「そうするのが目的だから戦争を仕掛ける必要なんかない。ちょっとこっちの戦力を多めに見積もらせればいいだけなんだ。それを俺がするから、ルノアは安心して自分のする事をしてくれればいいのさ。」
「……でも、やっぱり私達は仁志様に頼りきりです……」
「じゃあさ、今回の件が片付いたらその恩を返してくれないか?」
「終わってから、ですか……?」
「そう、明日無事にノーザスト軍を追い払って、とりあえずミッドネアが攻められる心配がなくなったらその時改めてその恩について話さないか?今はほら、夜中だし、明日も早いから、ね?」
俺は必死にルノアを説得した。
頭の片隅から聞こえる(今ならいける、いっとけって!)という声を必死に無視する。
「……わかりました。」
しばらくしてようやくルノアが納得してくれた。
「今日はもうおいとまします。話を聞いてくださってありがとうございます。」
「ああ、ルノアの話だったらなんだって聞くからさ、いつでも来てくれよ!」
俺はそう言って立ち上がり、ルノアに手を差し出した。
ルノアの手を取って立ち上がらせ、ドアの方へといざなう。
正直言うと滅茶苦茶惜しいが今は仕方がない。
明日は早いのに今の状態ですら寝られそうにないのだ。
早いとこルノアを帰して落ち着かなくては。
「では仁志様、お休みなさい……」
「ああ、お休み。明日は頑張ろうぜ!」
そう言ってルノアを部屋から出すとドアに背を向け一息ついた。
「やっぱ惜しかった……」
独り言が口から出た瞬間、ドアが開き俺の背中に何かが飛び込んできた。
背中に当たる柔らかい感触。これは……
「ル、ルノアッ!?」
それはルノアだった。
背中から俺にきつく抱きついているのだ。
つまりさっきから背中に当たっている柔らかなものは……
「ル……」
「お願いです、明日は決して無茶はしないと約束してください。絶対に生きて帰ると。」
「……」
「……」
「……分かった、約束する。」
しばらくして俺はそう答えた。
別に背中の感触を楽しみたかったからじゃない。
正直言って俺も別に明日は決死の覚悟で行くつもりはなかった。
適当に相手をビビらせればいいだけなのだ。
だが、今夜のルノアを見て逆に覚悟が固まった。
明日は何があってもこの国を守ってみせると。
答えまでの時間はそれを決意するのにかかった時間だ。
「……約束、ですからね。」
ルノアはそう言って離れ、今度こそ本当に出て行った。
「~~~~」
ルノアが出て行ってしばらくしてから俺はベッドに倒れ込み、深く息をついた。
ごろりと寝返りを打ち、窓の外に輝く月を見上げる。
元いた世界とあまりにも違う事ばかりだが、幾つかはほとんど同じものがある。
月もその一つだ。
明日も俺はこの月を見る事が出来るのだろうか。
いや、そんな事を考えても仕方がない、明日はやれることをやるだけだ。
ふとベッドを見ると枕元に深々と短剣が刺さっていた。
瞬時にブレンダンの顔が浮かぶ。
「ハハ……」
あの時、ルノアに手を出していたらどうなっていたのやら。
まったく、この世界は単純に物思いにふける事すら許してくれないらしい。
そんな事を考えている間に俺は眠りに落ちていった。