第60話 『慈愛に満ちた魔法の言葉』
「教育係」
「はい、如何しましたか?」
「ちょっとクルマを停めてくれ」
ある日の帰り道。
いつものように奴の運転で帰宅途中。
ボクはとある生理現象に見舞われた。
ぶるりと背筋が震える。
震えの発生源は、下腹部。
ボクは……おしっこがしたかった。
帰る前に済ませておけば良かった。
そんな後悔は後の祭りである。
大切なのは、今この時、この瞬間。
少し我慢すればすぐに離宮に着く。
だけど、それじゃあ駄目なんだ。
ボクは今この瞬間を生きている。
生きているから、おしっこが出る。
当たり前だ。
当たり前に、トイレがしたい。
だって、もう漏れそうなんだもん。
青い顔で停車を求めるボク。
教育係は怪訝な表情。
そして、奴は普通に尋ねてきた。
「どうかなさったのですか?」
極めて平凡な問いかけ。
しかし、この状況下では煩わしい。
人間の言葉によるやり取り。
なんて無駄で非効率的なのだろう。
憤りつつも、短く返答した。
「トイレがしたいんだ」
「それは大ですか、小ですか?」
間髪入れずに追求された。
いやいや、なんだその質問は。
明らかにおかしな着眼点。
別にどっちでもいいだろう!?
そんなこと聞くなよ!?
漏れちゃうだろっ!!
いや待て、落ちつけ。
あんまり熱くなると誤解を招く。
大と思われたら厄介だ。
ポーカーフェイスだ。
そうだ、感情を殺せ。
ボクは人形。おしっこがしたい人形だ。
あくまでも冷静に、返答する。
「おしっこがしたいんだ」
「それは残念です……はあ」
おい、こら。
なんで残念なんだよ。
なんかボクが悪いみたいじゃないか。
だけど、今のボクは無機質な人形。
そんなことで怒ったりしない。
だって、怒ると大だと思われちゃうから。
だから、気持ちを静めて再び要請する。
「おしっこがしたいから、停めて」
「あ、丁度良いところに紙コップが」
紙コップ……だと?
そんなもの、丁度良くある筈ない。
なんでそんな物を持っているんだ。
困惑するボクに奴は紙コップを寄越す。
「はい、どうぞ」
「えっ?」
ん? どうぞ?
どうぞって、なんだ?
意味がわからない。
どういたしまして、と言うべきか?
暫し悩んで、そして奴の意図に気づく。
あれっ?
まさか、これに、しろと?
えっ? おしっこをこれに?
いやいやいや! 待ってくれよっ!?
おかしいだろ!? おかしいよねぇ!?
だけど、取り乱すわけにはいかない。
あくまでクールに、正論を返す。
「車内は揺れるから無理だ」
「私の運転技術なら平気です」
「しかし、並々になったら……」
「零さないように運転出来ますので」
それはすごい。
まるで漫画の主人公みたいだ。
奴に読まされた漫画に出てきた。
もしや、教育係は豆腐屋の子供なのか?
いや、そうじゃない。
いつの間にか、論点がズレている。
ズラしたのはボクなんだけど。
いや、だって、恥ずかしかったから。
そんなこと言ってる場合じゃない。
そろそろ、本気でやばい。
あ、でも。
このままなら離宮まで持つかも。
だけど、なんか……クルマが遅い。
教育係がノロノロ運転をしている。
「教育係」
「はい、なんでしょう?」
「いつもより遅くないか?」
「トランクに豆腐を積んでいますので」
もういいよっ!
豆腐屋の話はさっき終わっただろう!?
だいたいなんで豆腐を積んでるんだ!?
これは明らかな作為。
悪意的な作為をひしひし感じる。
教育係は、ボクを困らせている。
けれど、ボクは負けない。
絶対負けてなるものか。
教育係なんかに負けないんだからー!
あ、ダメだ。
ちょっと、本気でやばい。
マジで・漏れる・5秒前だ。
これが、『M・M・5』……か。
なんてことを言ってる場合じゃない。
もうやめだ。ポーカーフェイスなんて。
プライドと尿意を天秤にかけてはダメ。
ボクはモジモジと内股で。
スカートを押さえつつ。
涙目で教育係に懇願した。
「教育係ぃ……ぐすっ」
「漏れちゃいましたか?」
「お願いだからクルマ停めてよぉ!!」
「やれやれ、仕方ありませんね」
教育係がシフトダウン。
ブレーキを踏んで路肩に停車。
ボクはシートベルトを外して降車。
そして、路肩の茂みに飛び込んだ。
スカートをたくし上げて下着を下ろす。
そして、その場にしゃがみ込んだ。
外で用を足すなんて、初めてだ。
辺りは日が暮れ始めて、薄暗い。
ギャーギャー鳴く、カラスの声。
すると、なんだか怖くなってきた。
もしかしたら蛇にお尻を噛まれるかも。
一刻も早く、この場から立ち去りたい。
けれど、怖くてなかなか出てこない。
おしっこがしたい。
けど、怖くて出ない。
そんな極限状態のボク。
その時、パキッと、枝を踏む音が。
咄嗟に振り返ろうとする。
けれど、それよりも、早く。
後ろから、何者かに抱きしめられた。
「きゃあああああああああっ!?!!」
「大丈夫です、私ですよ」
悲鳴を上げるボクの耳元で囁く声。
その声は、教育係のものだった。
それでほっと一安心……なんてしない。
何なんだこいつは。
何しに来やがったんだ?
人のトイレの邪魔しやがって。
ボクは怒気を露わに、怒鳴り散らす。
「お、おお、お前!何のつもりだ!?」
「お手伝いをしようかと」
「そんなのいらない!あっちいけっ!」
馬鹿な教育係を追い払う。
言うに事欠いて『手伝い』だと?
何を考えているんだこの変態は。
いくら好きだって、これはない。
トイレを手伝わせるなんて、ダメ。
だって今、ボクはお尻丸出しだし。
……なんだか、恥ずかしくなってきた。
それと同時に尿意も引っ込んだ。
くそっ! なんてことだ!!
「お前のせいで引っ込んだぞ!!」
「おやおや、それは大変ですね」
「どう責任を取るつもりだ!?」
「それでは、こうしましょう」
教育係を叱りつける。
すると、奴は更に抱き締めてきた。
後ろから優しく掻き抱くように。
ボクと同じようにしゃがみ込んで。
教育係の足が、ボクを挟み込む。
あっ。なんかこれ……いいかも。
つい、そんな風に思ってしまう。
そのくらい、心地良い抱かれ方。
そして奴は、ボクの耳元で、囁いた。
「ほら、しーってして下さい」
「えっ?」
「しーしーしー」
それは赤子に排尿を促すような。
そんな慈愛に満ちた魔法の言葉。
言葉だけじゃない。
お腹の下辺りを、ぐいっと押された。
「だ、ダメだよそんなのっ!?」
「しーしーしー」
「は、恥ずかしいよぉ!? 離してっ!」
「ちっとも恥ずかしくありません」
慌てて逃げ出そうとするボク。
しかし、教育係は逃さない。
奴は恥ずかしくないと言う。
でも、このままでは、見られてしまう。
ボクが、おしっこをしているところを。
「み、見ないでっ!!」
「暗くて何も見えませんよ?」
「そういう問題じゃ……んあっ!」
懸命に抵抗するボク。
すると奴に視界を塞がれた。
何にも見えない。
教育係の荒い息遣いだけが聞こえる。
「ど、どうして目隠しするのっ!?」
「その方がやり易いかと思いまして」
なんだその理由は!?
全く以って理解不能だ。
けれどその間にも奴の刺激は続く。
もう、やばいかも。
ダメだよそんな強く押したら!
ああ、ダメダメダメ!!
なけなしの理性で我慢するボク。
そんなボクに奴がトドメを刺した。
「あむっ!」
「ぁんっ!」
狙われたのは、耳。
ボクの耳に、奴は噛みついた。
そしてそのままガジガジ齧る。
すると、ボクの頭は真っ白になって。
「教育係」
「はい、どうかなさいましたか?」
「今日はいくらなんでもやりすぎだ」
用を済ませて、再び車内。
ボクは苦言を呈さずにはいられない。
いくら好きな相手でも、あんなこと。
倫理的に間違っている。
けれど、教育係は何処吹く風。
「でも、気持ち良かったでしょう?」
鼻歌を歌いながら、上機嫌。
そして悪びれた様子は一切ない。
こいつはちっとも反省していない。
ぷんぷん怒りつつも、否定は出来ない。
気持ち良かったかと聞かれると、困る。
嘘をついても、すぐ見抜かれるだろう。
だから、ボクはぷいっとそっぽを向く。
そして、ボソッと、一言。
「……また今度、やろう」
「はいっ!殿下の御心のままにっ!!」
ボクの教育係は、近頃歯止めが効かない。




