椿
この世の終わりが近づいてくる。
刻々と迫る悲鳴や罵声を聞き流しながら、娘は手元の一輪の紅椿を撫でていた。
武士の妻とは、なんたるか。
かつて、両の親からこんこんと言い聞かされた言葉が、椿の頭の中によぎる。
『武士の妻とは、慎ましく、それでいて夫に尽くすもの。夫が死んだ折には、妻も共に死ぬことこそ定めです』
聡く賢い椿は「はい」と頷きながらも、内面では嘲笑していた。
死ぬことが、定め。
その定めの、なんとおかしなことか。
命は、いつになってもひとつだ。そしてその命の使い方を決めるのは、椿自身。彼女はそういった考えを持ち合わせていた。
しかし武士の妻になることは、すでに決まっている。許婚がいるのだ。
そんなことを考える椿の耳に、なんともこそばゆい音が聞こえ出したのは、自身の身の上に絶望したからやもしれない。
からん、ころん
からん、ころん
寄せては引く、波のように。
軽やかな下駄の音は、椿のことを嗤う。
わらべの楽しげな歌が聞こえ、まるで祭りのときのようだと彼女は思った。
日に日に大きくなる音は、死神の到来を告げていた。
しかしそんな音がいっときばかり病んだ時期があったのだ。
それは、椿が許嫁のもとに嫁いでからのことである。
初めて顔を合わせる男は、どこにでもいそうな普通の男だった。寡黙で真面目な、厳しい人。されど椿と顔を合わせるときは、頬に朱を散らした。その様が可愛らしくて、椿は思わず笑った。
そんな夫に心を寄せるのは、そう遅くはなかった。
その日から、椿の頭に闇が忍ばなくなったのだ。
仕事に忙しい毎日を送る中でも、夫は生真面目に椿と逢瀬を交わしてくれた。椿はそんな彼の、手を握るのが好きだった。
節くれ立った手はたこがあり、ごつごつしていた。太さもたおやかな椿の二倍はある。そんな手に包まれて歩く雪空は、春が来たかのようにあたたかかった。
しかし幸せな日々は長く続かない。
夫は仕事に追われ、戦に駆り出されることが増えた。ちらほらと、悪い噂も飛び交うようになった。再び、椿のもとに死神の足音が忍び寄る。
からん、ころん
からん、ころん
されどその音に、彼女は怯えることがなくなった。むしろとても、愛おしいものに聞こえたのだ。
おそらくこの戦で、この家は滅びることになる。
負けた武士の家の妻がどうなるかなど、考えなくとも分かることだ。なまじ容姿が良い椿なら、妾としてそばに置かれることになるかもしれない。
あの人以外に触れられるくらいなら、自ら命を立ったほうがマシだ。
椿は自分自身の意志で、自害することを決めた。
からん、ころん
からん、ころん
いよいよ、足音が目前までやってきた。命を絶つときが近づいてきている。
わらべの唄が部屋中にこだまし、響き合う音を聞いて、椿は懐刀を取り出した。
屋敷は、地獄のごとき叫び声で満ちている。
女はなぶられ、男は殺される。そんな断末魔の中、椿の心はとても穏やかだった。
もうこれで、死に怯えることもない。
ただひとつ心残りなのは、死ぬ間際に夫に会えなかったことだろうか。
一目でも良いから、彼に会いたかった。
椿は手元の紅椿をひと撫でし、短刀を首に当てる。
からん
ひときわ大きな下駄が響いたのは、そんなときだった。
ゆらりと顔を上げれば、そこには十ほどの少女がいる。顔には仮面がかぶさり、口元だけが窺えた。その口は弧を描いている。あはは、うふふ、と楽しげな笑い声が広がった。
そんな少女が袖を引っ張っていたのは。
まごうことなき、椿の夫で。
少し照れたように頭を掻く仕草は、彼女が見知ったものだった。
思わず少女を見れば、口元に手を当てけたけたと笑う。普段なら耳障りなそれは、とても愛おしいものに聞こえた。
そして椿は、下駄の音の意味を知る。
嗚呼、なんだ、あの音は、
「この日のためのものだったのね」
ぽとりと、紅椿が落ちる。
それはころころと転がって、床に花びらを散らした。
からん、ころん
――音が近づいてくる。
からん、ころん
――笑い声が響く。
からん、ころん
――それは眼前で止まって。
からん、ころん。
――落ちた。
お題は「死」。
趣味で戦国時代を調べていて「細川ガラシャ」の生き様があんまりにもあれで、ちょっと投影させながら書いたものです。こういう苦く哀しい話のほうが好き。
リハビリと新境地開拓も兼ねて、文学らしい作品を書いてみました。
椿って良いですよね。綺麗で。
少しでも、心に響かせることができたなら幸いです。