#2 A certain day of summer:1 / ある夏の日:1
―「魔物」と呼ばれる生物がこの世に出現したのは、もう16年以上も前になる。
北アメリカ南部、アジア東部、ヨーロッパ北部の3か所で出現し、周囲の人間を次々に殺害してゆく異形の生物の情報は、テレビ、インターネット、新聞など、現代社会の情報網で瞬く間に広がった。各国政府はこれを未確認外的生物と推定し、軍事力による事態の収拾を行おうとした。しかし、未確認生物はその強靭な肉体を駆使し、駆逐作戦を敢行した部隊をことごとく撃退、壊滅まで持ち込んでいった。凶悪な力と伝説上の怪物のような姿。各種メディアでは未確認生物を「魔物」と呼び報道した。
しかし、魔物の一番の脅威は、その生命力にあった。
魔物の肉体構造の特性として、
「現代の化学兵器には何らかの耐性を持っており、それらを使用しての攻撃による肉体的ダメージは瞬時に回復する」
つまり、今の人類の技術では、魔物は殺せない。
その事実が生き残った隊員からの報告で明らかになった。その情報が全世界に伝わる頃には、人々の混乱は、絶望へと変わっていた。
各国の上層部は、この事態を終結させるべく、全世界の研究者・企業・学者を総動員し、魔物の謎の力の解明に尽力した。その研究の末に発見されたのは、「人類の体内及び魔物に共通して含有される特殊エネルギー」の存在だった。窮地に立たされた人類を救う未知の力。研究者たちはそれを暫定的に「魔力エネルギー」と名付けた。
魔力エネルギーを使用した特殊兵装は試験運用を経て間もなく実践投入され、大きな戦果を挙げた。装置を介し魔力を使用して様々な現象を起こすこの戦闘方法は、「現代魔術」と呼ばれ、それを扱う者達を「魔術師」と呼んだ―
そして時は過ぎ、2031年の初夏。少年は街を見下ろしていた。
生存者用の住宅の煙突の多くから煙が立ち上り、朝日に照らされてその黒さを一層増している。住宅以外にも、会社、飲食店、雑貨店、コンビニ、スーパーマーケットなど、現在の暮らしも、基本的には以前のものとそう大差はない。
「…めちゃくちゃねみぃ…」
大きなあくびをして呟く少年の目には、今日も変わらない朝の風景が映る。
現在時刻は朝の7時前。彼が立っているのは、旧ヨーロッパ南東部に人類生活可能区域を囲む巨大要塞「ヘスティア」の屋上。家庭生活の守護神とされ崇められていた、古代ギリシアの炉の女神から採ったこの要塞は、名前に違わず今日もこの地に生きる人々の日常を守っていた。
しかし、この要塞もまた、魔力技術を応用していると言えども魔物に対しては一定の効力しか見込めず、一度に大量の個体が出現したり、強力な個体が現れたりした場合の防衛壁としての機能には疑念が残る。
そこで現在は、「AQDEA」と呼ばれる魔術師組織がこの要塞の防衛を全面的に担っている。
アライスト・クロウィリー。彼もまた、この「中央エリア」と呼ばれる居住地域で、人々を守る任に就いた魔術師の一人である。
クロが何も考えずただただ街の様子を眺めていると、ヘスティアの案内放送が耳に入った。
『間もなく定時探索の時間です。該当する魔術師は、地区別出発ゲートへ向かって下さい。』
「もうそんな時間か…」
クロは時計を確認しながら呟く。元々彼がここにいる理由は、共に放送で案内されていた「定時探索」と呼ばれる任務へ向かう予定の人物との待ち合わせなのだが、もう待ち合わせの時刻から15分は経過した。
「はあ、迎えに行くか…ってあれ?」
溜め息をつきながら待ち人を探しに行こうと踵を返した時、胸のあたりにぽすっ、と顔をうずめる少女の姿があった。
「むにゃ」
顔を引きつらせたクロが状況を理解するまでには、それほどの時間を要することは無かった。現在の状況を端的に説明するならば、
待ち人は来た。しかし、パジャマ姿で、寝ぼけながら。
「おい。」
今持てる限りの全力の平常心で、クロは少女―エリフェス・レヴァに話しかける。
「ふみゅ…ん…?あ、おはよう…クロ…すぅ…」
再び夢の世界へとひとり舞い戻る少女を前に、クロは諦めて天を仰いだ。
『間もなく定時探索の時間です。該当する魔術師は、地区別出発ゲートへ向かって下さい。』
ただただ、案内放送の規則正しい声が、朝の青空に消えてった。
定時探索というのは、アクディアに所属する魔術師の業務内容の一つで、朝の時点でヘスティア周辺の居住不可区域の探索を行うことで、事前に魔物や魔物の出現の兆候を察知し対策を取る為に行われる。この探索の結果から、各地域の魔術師部隊の1日の動きがブリーフィングで決定する。
この任務の出発時間は7時45分、遅くとも8時ちょうどには出発ゲートを出なければいけないのだが、現在時刻は7時57分。出発ゲートへと繋がる連絡通路を走る二人の魔術師の姿があった。
「なんで起こしてくれないの!?」
「起こしても寝るだろ!」
隣で必死に足を前に出す少女の寝坊が原因で、いつもより早い起床で得た貴重な時間を失い、全力で走る羽目になっているクロは、息を上げながら目的地のゲート前で立ち止まる。
「認証コード:LK6809!」
パネルに識別用のカードを押し当て、すらすらと認証コードを読み上げる。時計を確認すると、7時59分32秒。ぎりぎり間に合ったらしい。二人は大きく深呼吸してから、ゲートへと足を運ぶ。その先に広がるのは人間にとっては地獄であり、また彼らにとっては職場である世界。
「さて」
今日も変わらず職場に広がる黒雲を見上げ、一呼吸置いてからクロは気合を込めて、
「お仕事、始めますか!」
高らかに、言った。