何故、僕なんですか?
全中県予選敗退後。
皆で一頻り泣き合って、顧問の先生から「胸を張って帰ろう」と言われ、まだ涙を流しながらも顔を上げて。
拍手と共に、ついさっきまでプレーしていた舞台を後にし。
そして会場からも出ようとした時。
「少し、時間を貰えるか」
待っていたかのように、前澤監督は現れた。
齢五十を越え、しかしただ歳を重ねただけでは無い事を物語る声色。
様々な経験をから来る重い口調で、話し掛けてきた。
「……僕、ですか?」
その前澤監督の眼が捉えている者。話し掛けられた者。
それは、気のせいじゃなければ、僕だった。
確信は無い。これまで話した事もなければ、顔さえ合わせた事すら無い。正真正銘の初対面だ。
前澤監督が、この場に居る事自体は不思議では無い。
進学校でありスポーツ推薦も無い中間は、多くの才能を集める事は難しい。それでも、今の内に中間へ入るかもしれない選手を見る為に、わざわざ赴いてきたのだろう。
「ああ、獅堂圭。何、それ程時間は取らせない。場所も変えなくていい」
周りが俄に騒めく。
先程までは何が何だか分からず無言だったが、僕の名前が出た瞬間現実味が出て来たらしい。
そして。
「単刀直入に言おう。獅堂圭、お前は中間へ来る気はないか?」
爆弾を、投下した。
今度は歓声が上がる。ついさっきまでは号泣していた奴らばかりなのに、僕以外の誰もが声を荒げていた。
しかし、無理はない。感情のベクトルが逆転してしまう程の出来事だからだ。
前澤監督は、殆どスカウト活動はしない。限られた素材をどこまで磨き上げる事が出来るか、それが生き甲斐だと語っているのは有名な話だ。
例外はある。殆どスカウト活動はしないが、全くしない訳でもなく、過去にも何度か前澤監督自ら連れてきた選手が居るとも聞いている。
現中間にも一人、監督が連れてきた選手が居る。ただそれでも例は少ない。
その数少ない例に、自分達の知り合いが選ばれる。態々会って話そうとしてきた時点で予想は付いていても、実際にその言葉を聞いて改めて驚かされたのだろう。
反対に僕は、言葉を失ってしまった。驚愕もあるが、それ以上に戸惑いの方が大きかったからだ。
全く予想出来ていなかった訳では無い。皆と同じく、このシチュエーションならそうかもしれないぐらいには思っていた。
思っては、いたけれども。
「何故、僕なんですか?」
この言葉が全て。
僕は確かに、境遇から少しは知っている人も居るかもしれないけれど、あくまで話題性に過ぎない。
体格は普通。サッカーの技術なんて以ての外。走れない、守れない、今出来る事と言えば止めて蹴るだけ。
それにしても全国的に見てそこまで上手い訳でも無い事は、僕自身が一番分かっている。
その僕の、一体どこを見て態々スカウトしに来たのか。それも、滅多にスカウトをしないあの前澤監督が。
「簡単な話だ」
淡々と語る。相変わらずの重い声で、それだけで歓声を上げていた部員達を黙らせてしまった。
そもそも。僕自身に用があるなら、この場でなくとも良かった筈だ。
確かに自分もこの場に居たのならタイミングは良かったのかもしれない。それにしても、こんな大勢の前で告げる必要は無い。
あの前澤監督が、滅多にしないスカウト活動を、こんなに人の目の付く所でやっている。しかも大半が僕の知り合い。
これじゃあ、まるで──
「お前には、”視”えているからだ。こればかりは一朝一夕で身に付くものでは無い。天才では無いが、秀才ではある。立派な才能だ」
舞台を、整えようとしているみたいじゃないか。
僕を、舞台に上げようとしているみたいじゃないか。
上がりたくない訳じゃない。
それは僕だけじゃなく、こんな場面に当たったら誰でもそう思うだろう。
育成の前澤。名将前澤。知る人ぞ知る、あの前澤監督の元で、前澤監督に望まれてプレーが出来る。
願ってもない舞台だ。そこまで整えて貰ったらこちらから是非お願いしたいぐらいの、絶好が頭に付く程の。
でも。
「もう一度言おう、獅堂圭。お前は、中間に来る気はないか?」
それでも。
「私と一緒に、中間でサッカーをする気はないか?」
僕は──
「……考えさせてください」
何で、どうして、勿体無い。
大方の予想とは違う発言に、周りからはそんな言葉ばかり聞こえる。
あの前澤監督にここまで言われて、首を縦に振らなかった人間は、もしかしたら僕が初めてなのかもしれない。
それでも。
周りまで巻き込んで、僕の大切な仲間を巻き込んでまで整えられた舞台には、そう簡単に上がる気はない。
最早これは、囲い込みに近い事だ。
実際前澤監督は、特別な事は何もしていない。ただスカウトしに来ただけとも言える。
けれど、それだけなら僕個人に伝えればいいだけだ。
それを態々皆の前で伝えた理由は一つ。
言うまでも無く、舞台を整える為だ。
あの前澤監督が、直々にスカウトへ来た逸材。それも自分達の知り合い。これは凄い事だ、ひょっとしたら自分達は未来のスター誕生の瞬間に立ち会えたのではないか。
周りにそう思わせる事こそが、前澤監督の狙いに他ならない。
実際僕の事をどこまで知っているかは分からないが、少なくともこれまでの学校生活については、ある程度調べて来ているのだろう。
頼まれたら断れない。期待されたら全力で応えようとする。
環境にも恵まれて、悪意を持って頼み事などをしてくる者こそいなかったが、喩えただやりたくない事を押し付けられても、僕は笑顔で引き受けただろう。
それを責任感と言うよりは、臆病なだけ。僕が断る事で、余計ないざこざが起きるのを避けたいだけ。
そんな僕が、恐らく初めて期待に背いた。
周りからは不穏な空気が流れ、僕を批難する声も聞こえる。僕がそう答える事によってそうなるのは、勿論予測出来ていた。
それでも。
やっぱりそれでも、だ。
サッカーを通じて知り合えた、素晴らしい仲間達。
ひょっとしたら、いいやきっとそうなのだろう、臆病な僕に悪意が向かない様に僕を守ってくれて居た存在。
その仲間達に。
舞台を整える為だけに、私利私欲の為だけに使う事は我慢がならない。
全快して、いつまでも守られているだけなのは、我慢がならない。そう思ったんだ。
「……なるほど、勘違いしていた様だ。お前はそう言う奴か」
僕の返答を、予想していたと言う事は無いだろう。それは呟いた言葉からも出ている。
それでも前澤監督は、対して驚いた様な仕草を見せず、相変わらず淡々と口を開く。
むしろ。
「言っておくが、勘違いと言うのはお前の性格の事だ。私がここに来た理由は、お前に対する興味は変わらない」
変わらない。
まるで、僕の答えに意味など無いかのように。
「安心しろ獅堂圭。次はこのような事はせず、正々堂々誘うとしよう」
平然と振り向き、何事も無かったかのように立ち去って行った。
次は。
次に会う時は、僕に相応しい舞台を用意して来るのだろうか。
地元の駅で降り、改札を出た所でまた少し話し、皆と別れる。
辺りは流石に暗くなり、街灯が道を照らしていた。
時計を見ると20時過ぎ。両親はフットサルで遅くなる事を伝えてはいるが、あまり遅くなっても心配するだろう。
皆も僕が進学先についてずっと悩んでいることは知っているし、深くは聞いてこない。
それに、迷っている理由についても説明はしてある。
前澤監督の誘いを断った表向きの理由の一つは、”僕なんかを誘ってくれるだなんて、思ってもみなかったから”。
あの時は驚いて、正常な判断が出来ないと思ったから。
もう一つは、家庭の事情。
中間は自宅から通える距離にあるとは言え、当初考えていた”高校卒業後は就職”に当て嵌る高校とは言い難い。
卒業生の大半は進学する中間において、就職と言う選択肢は”進学を諦めた者が進む道”と認識されている。
要するに、無理して入ったが勉強に付いていけなくなった者が選ぶ道とされており、就職先もあまり良い所が無いというのが通説だ。
落ちこぼれとは言え、進学校なら他の学校よりずっと出来がいい、という訳でもない。
高校入試の時点では上だったかもしれないが、三年と言う年月は残酷なもので、歩みを止めてしまった者は容赦なく取り残されてしまう。
そこで自分の限界に気付き、転校などの道を選べる者は少ない。進学校と言うステータスを、たとえ張りぼてでも自ら捨てれる程、人は強くない。
一度折れてしまったら、中々立ち上がれない。それが自分は優秀だと思ってきた者なら尚更だ。
一概に全国の進学校が皆そうとは限らないが、少なくとも中間から就職する者に対するイメージはそんな感じで、就職率も悪い。
確かにサッカー選手として有名になれれば、プロになれなくとも就職先に対して大きなイメージアップに繋がる。
でもだからと言って就職を希望しているのに態々中間を選ぶ必要はないし、そもそも確実に有名なサッカー選手になれるとは限らない。
前澤監督の評判は確かに良いし、結果も残している。前澤監督が育てた有名な選手も多い。
しかし、そこに至るまでにはそれ以上に多くの、無名のまま終わっていた選手もいる筈だ。
たとえ前澤監督に才能を見出されたからって、そうならないという確証はない。
表立っていないだけでスカウト活動は結構しているのかもしれないし、僕自身未だに自分の才能をそこまで信じれはしない。
僕が前澤監督について知っているのは、それぐらい上辺の事だけなのだから。
ここまでの事は、表向きとは言うものの本心でもある。
”視”えているという意味もいまいち分からない。何を? どこを? それすら僕自身が分からないのに、信じろという方がおかしい。
けど、それはやっぱり表向きでしかない。後付けの理由だ。
そもそも。上辺だけでしか知らなかった有名な前澤監督から誘われただけなのなら、理由なんてあまり関係なかった。
確かにあの時は正常に頭が働いていたとは言い難いし、就職先などについて考えなかった訳では無い。
でも、あの前澤監督が、僕の事を褒めて、一緒にやろうと言ってくれる。
ただそれだけだったのなら、僕は恐らく前向きに考えていた。
元々ただのサッカー小僧だ。サッカーが好きで、身体の事なんか深く考えずに始めたこの僕が、それだけだったのならどんなに嬉しかった事か。
その場で舞い上がって、両親に相談する前にお願いしますと言ってしまいそうになるぐらい。
両親には更に悪い事をしてしまうし、ひょっとしたら断られるかもしれないけれど、その時点では別の意味で正常な判断が出来なくなっていただろう。
実際光栄な話であるのは間違いない。
前澤監督の僕に対するサッカー選手としての期待が嘘でない限り、どんな誘い方であろうとも。
それでも。
その時の僕は、正常な判断が出来なかった。
歓喜とは別の、真逆の意味で。
怒りに煮え滾った頭の中では、罵倒の言葉すら思い浮かんでいたからだ。
既の所で踏み留まれたのは、やっぱりサッカーの事があるから。
手法はどうであれ、僕を見初めて誘ってくれたのは確か。その理由については納得というか実感が湧かないけれど。
何せ育成の前澤とまで言われたからには、自分でも気付いていないものに気付いていてもおかしくない。
とまで考えていたかというと、勿論そうでもない。そうでもないが、煮え滾った頭で即座に切り捨てる話でもない、ぐらいには思っていた。
大切な仲間を利用したことは許せない。許せないけれど、一方で僅かに揺れる気持ちもあった。
正常な判断は出来ない、沸騰しきった頭の中で生まれた、別の感情。
その時は分からなかったし、今でも分からない。それがなんなのか。
「久しぶりだな、獅堂圭」
ここ最近毎日同じ事を考えながら歩いていると、横から声を掛けられた。
いつもの帰り道、中を通れば少しだけ早く帰れる公園。
ベンチから立ち上がって僕を呼ぶその誰かは、顔を確認するまでもない。
一人で帰る帰り道。すっかり人気のない公園で。
どうやら今夜分かる様だ。
「では改めよう、獅堂圭。お前をこの私、前澤繁のいる県立中間高等学校サッカー部へ誘いに来たぞ」
今度こそ僕の望む舞台を整えて、前澤監督は再開した。