幕間2
中間へ入って一ヶ月。
新しい友達も出来たし、勉強の方も今の所は問題無し。
此処に入った理由は勿論学業面を第一に考えての事だったけど、校内の雰囲気が良いと聞いていた事も大きかった。
進学校ともなれば、上を目指す為に少し殺伐としている所もあるらしい。けれど中間はそんな所も無く、かと言って騒がし過ぎる事も無い落ち着いた高校だと聞いていた。
入学して実際に過ごしてみて、その言葉が嘘じゃないと感じられる。休み時間は程々に騒がしく、授業中は無駄なお喋りが無い。陰湿ないじめも無ければ、羽目を外して停学になる人もいない。
騒がし過ぎず、静か過ぎず。部活も盛んでないこの高校を退屈だと思う人もいるかもしれないが、私を含む大多数の生徒はこの雰囲気を心地良く感じていると思う。
だけどその中で異彩を放っているのが、サッカー部関連。
つい二年前までは”他よりは活動的な部活”程度だったのに、今では県内屈指の実力を持つ高校として名を轟かせているらしい。
練習を見に行った事もあるけど、皆顔は真剣そのもの。普段聞かない様な大きな声も絶えず響くその様子は、中間においては非日常にさえ思える。
そんなサッカー部に対し、落ち着いた校風を好む生徒達はどう思っているのかと言えば、意外と言っていいのか大人気。
何に対しても、物事に真剣に取り組む姿に心を打たれる生徒も多い。有り体に言えばかっこいい。練習中は観戦は自由でも声援は厳禁、部員の殆どがサッカーに集中する為に彼女を作らない、そんなストイックな所も人気の一因になっている。
その人気は今年に入って更に加熱しているらしい。その原因は聞くまでも無い。
『聞いて聞いて和葉! さっき獅堂君におはようって言ったら笑顔でおはようって返して貰った!』
『えーっ! いいなー観鈴、て言うかよく声掛けれたね』
『うん! 敬遠されるの嫌だって聞いてたし、部活での真剣な顔も良いけどあの笑顔は反則……しかも私に向けて……あぁ……』
『おーい気持ちは分かるが帰ってこーい』
こんな会話は日常茶飯事。
獅堂君が居ると言うだけでサッカー部の練習を見に行く生徒は凄く多い。聞く所によると去年に比べて倍以上増えているとか。
「と言う訳なのよ人来過ぎよ私は交通整備しにマネージャーになったんじゃないわよ!」
「ど、どうどう」
「私は牛か! 香澄美の乳の方がよっぽど牛じゃない!!」
叶恵最近荒れてるなあ。でも気持ちは分かる。
サッカーが好きで、中学の頃からずっとマネージャーをしている彼女からすれば、今の環境をあまり良く思っていないだろうし、実際その事でよく愚痴を聞く。
「もう少し経てば落ち着いてくるらしいし、それまでの辛抱とは言うけど……あーもう! 臨時で何人かマネージャー雇えないかしら」
「募ればいっぱい人来ると思うよ」
「男目当ての牝豚達がね。そう言うのはNG」
「……どうどう」
「うっさいわよどうせ私はびーかっぷよ!」
相当イラついているみたい。普段は此処まで変な事は口走らない。
そんな不純な動悸で、サッカー部の中に入って来て欲しく無いのだろう。
「私だったら、少しの間ぐらい良いんだけど……」
「……あー駄目駄目。牝牛も出禁です」
「もー……」
分かってた事だけど。私だって本気で言っていないし。
叶恵は溜息をついて、
「まーこればっかりはね。アプローチは別口でお願い」
「分かってる。でも、どうしようかなあ……」
今度は私が溜息。
この一ヶ月、私を獅堂君と会話した事が無い。精々会釈程度だ。
合格発表の時に見掛けて、入学式まで忘れられなくて、また中間で見掛けた時は本当に嬉しくて、見掛ける度に目で追ってしまっていて。
サッカー部の練習には、叶恵が望んでいない事もあって殆ど見に行っていないけど、流石に自覚出来た。
私は、獅堂君の事が好きだ。
話した事も無いし、性格等は聞いた事しか知らない。それでも、見掛ける度にときめく気持ちは誤魔化せない。
「普通に話し掛ければいいじゃない。全然気取ってないし、香澄美に声掛けられて嫌な奴はいないわよ」
「でも……」
要は、私が意識し過ぎなんだ。
人を好きになるだなんて初めての事だし、獅堂君の姿を見掛けると頭が真っ白になる。
ついじっと顔を見てしまうから、獅堂君も気付くと会釈ぐらいはしてくれる。けれど、それに会釈で返す事が精一杯。
「全く……大体毎日顔合わせるんだから、いい加減声ぐらい掛けなさいよ」
毎日。そう、私は毎日獅堂君と顔を合わせる機会がある。
何の事は無い。ある時たまたま夕食後に、外のポストに郵便物を出しに行く際に、獅堂君が通り掛かった。学校指定のジャージを着て、手には何も持たず走って行った。
思わぬ遭遇に固まってしまって、擦れ違い様の会釈に何も出来なかった事を物凄く悔やんで、次の日。ひょっとしたらと思って昨日と同じ位の時間に外に出て少しして、また現れた。今度は会釈を返せて嬉しかった。
それ以来私は、ほぼ毎日時間になると外に出て、獅堂君を見掛けたら会釈をしてまた家に戻ると言う生活を続けている。
向こうも私の顔は覚えただろうし、毎日私が外にいるのを不審に思っているかもしれない。それもあっていい加減声を掛けた方がいいんだろうけど……
「……」
「ほんと重症ね。普段の香澄美からは想像付かないわ」
何も言えない私に対し、叶恵はまた溜息。私自身、初めての事にどうすればいいのか分からない。
見る前まではあれこれ考えていても、獅堂君を見た瞬間何も言えなくなる。獅堂君はペースを落とさず、会釈だけして通り過ぎて行く。その繰り返し。
「と、トレーニングの邪魔しちゃ悪いし……」
こんな風に、自分の行いに言い訳をする事なんて無かった。
でも、彼を目の前にしたら考えていた内容が全て飛んでしまって、何も言い出せなくなっちゃう。
ほんとに、重症だ。
「言う事欠いてそりゃ無いわよ。さっき臨時マネージャーをやりたがってたのは誰だっけ?」
「もー……」
「牛はもういいわよ。……あ、そう言えば」
私の言葉に何か思い出したのか、叶恵が切り出す。
何処に引っかかる所があったんだろう。……牝牛?
「香澄美言ってたわよね? 獅堂の通り掛かる時間がおかしいって」
「うん。部活が終わって大分時間が経ってるし、その間に何かしてるのかなって」
叶恵曰く、獅堂君は練習時間が終わるとすぐに部室に引き上げて行くらしい。帰り際にトレーニングの為に走っているとしても、私の自宅を通る時間はそれより遥かに遅い。
荷物も持っていないし、てっきり一旦家に帰ってから走っているのかな、と思ってた。
「あいつ、その時間までずっとトレーニングルームに居たのよ」
「……えっ? それってつまり……」
「そう。部活が終わって、みっちりウェイトトレーニングもして、更に走って帰ってるのよ。荷物は前澤監督が持って帰ってるとか」
「……」
言葉が出ない。
サッカー部の練習は相当ハードだと聞いている。それも中間の部活の中で、と言う訳では無い。叶恵が言うんだから実際にそうなんだろう。
それから更にレーニングルームで身体も鍛えて、最後に走って帰っている?
獅堂君が本当にサッカーが好きだとは聞いている。でも、薄幸の美少年と言う呼び名が似合う彼から、そこまでハードなトレーニングをしている姿はとても想像が付かない。
「まあ私も最初は信じられなかったわ。でも実際にその所を見てるし」
「……どんな顔してた?」
「普段からは想像も付かない程、必死な形相」
歯を食いしばって。
時には奇声の様な声さえ出して。
必死に筋力を付けようとする獅堂君の姿を、そこまで聞いても信じられなかった。
それは私だからと言う訳じゃない。恐らく獅堂圭と言う人間を知る全ての人に言っても、殆どの人に信じて貰えないだろう。
だから。
「……香澄美だから心配無いと思うけど、この事は他言無用でお願い。獅堂もそんなイメージ気にしないと思うし、知られて悪いって話でも無いかもしれない。でも、」
「うん。白鳥の足元がどうとか言うのは可哀想だし」
そんな一面を見てみたいと言う気持ちはある。そう思うのも、やっぱり私だけじゃないだろう。
だけど観客は、水面に浮かぶ姿だけを見ていればいい。水中を、舞台裏を知るのは、関係者だけでいい。
私はただの関係者の知り合い。舞台裏に入る権利は無い。
「そう言う事。まああいつはまだまだひよこだけどね」
「叶恵、鳥の子供は何でもひよこだと思ってる?」
「……な、なんでよ! 香澄美のお母さんは牛じゃないじゃない!!」
何か。
ほんの少しだけ、何かが気になったけど。
一先ず、獅堂君の新たな一面を知れたと言うだけで、良しとしよう。
今日も、殆ど観客を捌くだけの仕事が終わった。
うんざりする。こんな事がしたくてマネージャーになった訳じゃ無いのに。
マネージャーとして最低限やるべき事はやっているけど、本当はもっと練習に付きっ切りで居たい。監督やコーチとももっと話して、もっと勉強したい。
特に一年はこの時期、慣れない環境や良い所を見せる為に無理をして怪我を起こし易い。監督だって常に全員の事を見るのは不可能だし、部員からすれば監督と選手、教師と生徒の関係は少し話し掛け難い存在でもある。
だけど、私なら。私達マネージャーは彼らと同じ生徒だし、その点でもフォロー出来る。
普段は取っ付き難いとか言われる事もある私だけど、ことサッカーに関しては違う自信がある。今の仕事内容も部内で不満は一切言ってないし、その中で評価して貰ってる部分もある。
その結果、勘違いして言い寄ってくる人も居るけどそこの線引きはしっかり。変に波風を立てる事もしたく無い。
もう少しすれば私のサッカーに対する姿勢も分かって貰えると思うし、観客も落ち着くらしいし、それまでの我慢だ。
……とは言え、
「多過ぎでしょ。恨むぞこのやろー」
練習が終わって、先輩マネージャーの皆さんと一緒に後片付け。ふと一人になった時に、思わず漏れてしまう。
別段聞かれてもそんなに構わない内容だし、そもそも皆さんと言っても私を含めて三人しかいない。他二人は先輩だ。
サッカー部のマネージャーと聞くと初めはやりたいと言う人も多いが、実際にやっている事は雑用。こんな事好んでやる人はよっぽどの世話好きか、サッカー好きぐらいしかいないと思う。
先輩の内一人は前者、もう一人は後者。二人共二年で仲が良く、私にも良くしてくれている。さっぱりとした性格なので私としても付き合い易い。
ただその先輩達も含めて、観客が注目しているのはほぼ一人。
獅堂圭。こいつが来たお陰で私の交通整備が一向に終わらない事は非常に腹ただしい。
とんでもない美少年なのに、自分の事にはとんで無頓着。なのに周りの空気には機敏で、その気遣いに周りが助けられている事も良くある。
刺のある態度の籐一郎が難なく中間に馴染めているのも、圭が事ある毎にフォローを入れて回っていたから。
あの気難しい征士先輩にしたってそう。ペアを組んだとは言え、孤立しがちな先輩と他の部員の関係も良く取り持ってくれている。
雄大キャプテンも憂慮していたそれらの事を、圭は一ヶ月足らずで両方共解決してみせた。もっとも本人からすれば、キャプテンのする事をほんの少し手伝ったぐらい、にしか思っていないんだろうけど。
その奥ゆかしさは、まあ美点だと思う。そんな彼がモテない筈はないし、K'sと言うファンクラブまであるのも知ってる。安易なネーム。
だけど、此処で見るべき人は圭なんかじゃないと私は思う。
確かにサッカーだって下手じゃない。当たりこそ弱いものの、基本に忠実でミスも少ない。サッカーIQ、戦術理解度も高いみたいで、二手三手先を意識して動いている様に見える。
しかし、此処中間には日本有数の高校生が二人も居るんだから。
サッカー部を、サッカーを見に来たのなら籐一郎や征士先輩こそ見るに値する人だ。
籐一郎の体格を活かしたパワープレーや、征士先輩の誰も予想の付かない独創的なプレーは、素人目で見ても分かる凄さがある。
圭も上手い事は上手いが、二人に比べればまだまだだし第一地味。少なくとも素人が見てもあまり面白くないだろう。
なのに圭ばかり見ている。つまり所詮はサッカーを見ていないと言う事。少しでも籐一郎や征士先輩を見ていれば、自然に目がそちらに行く筈だから。
サッカー部を見に来ているのに、サッカーを見ていない。そんな人達の為に私の時間を使っていると思うと腹が立ってくる。
それだけじゃない。練習が終わっても二人は居残り練習の常連で、フリーキックやコーナーキック等のセットプレーの練習も見ていて迫力がある。
それに比べ、圭は練習が終わるとさっさと引き上げてしまう。この辺の意識の違いも、私はどうにも気に食わなかった。
そう、気に食わない。いつも余裕そうで、全てを見透かしていそうなあの目も。
此処の練習は結構きついし、香澄美は毎日ランニングをする圭の姿を見掛けているみたいだけど。
必死さが伝わって来ない。
噂によると、サッカーが好きで好きで仕方が無いみたいな事を聞いていたけど、所詮趣味の範疇の話だったみたいだ。
「瀬能」
ぶちぶち言いながらある程度片付けを終わらせて、後は居残り練習をしている人達に任せようとしていると、声を掛けられた。
声の主は、
「監督。何か用ですか?」
「うむ。頼みがある」
いつもよりほんの少しだけ声色が違う、申し訳なさそうにしながら続ける。
サッカー部の最高権威者である監督が、もう部活は終わっているとは言えこんな様子をしていると違和感があった。
それでなくとも、授業中であろうと有無を言わせない重い口調と威圧感さえある佇まいをしているこの人から、こんな態度を取られては何事かと身構えてしまう。
「そんなに警戒しなくていい。迷惑を掛ける事に変わりはないが」
「……何でしょうか」
普段監督は、練習が終わると何処かへ行ってしまう。コーチは居残り練習に付き添っているので、何をやっているのか分からない。
練習について自分なりに纏めてでもいるのかと思っていたけど、どうにも違うみたい。この人が私に出来ない事を押し付けるとは思えない。
警戒を解くと、その態度に満足したのかいつもの調子に戻り、
「トレーニングルームの戸締りと、其処にいる者の世話をしてやって欲しい」
言葉と共に、鍵を差し出した。
何の鍵かは聞くまでも無い。聞きたいのは其処じゃない。
「世話、とは? 第一誰なんですか?」
「悪いが時間が無い。後は其処に居る者に聞いてくれ。頼んだぞ」
肝心な事を聞けずに、足早に去って行ってしまった。
慌てた様子も無かったが、内心急いでいたのかもしれない。
一人取り残された私は、最近増えた溜息を付きつつ、言われた通りトレーニングルームへと向かった。
向かって、着いて、中に入ったはいいけど。
其処で広がっていた光景は、とても信じ難い事だった。
「うぐっ……だあ!」
様々な用具を使い、普段からは想像も付かない形相で、歯を食いしばってトレーニングする圭が居た。
上はアンダーシャツ一枚で、汗で髪の毛までびっしょり濡れている。
呆然とそれを見ながら、ふと近くのベンチに置いてある用紙が目に入り手に取ると、
「……」
また絶句。
中には下半身を鍛えるものだけでなく、腹筋や背筋、胸筋等の体幹を鍛えるもの、食事法までも。挙句最後には走って帰れと言う文まであった。
何これ?
これを、もしかして毎日やっていた?
筋肉を膨らます為にではなく、毎日使う事を目的とした内容。それを全身バランス良く鍛える様に。加えて硬くなり過ぎない様にストレッチも入念に。
この内容を終えるまで、どれ程の時間が掛かるのだろう。
そしてこれだけの内容を終えた後、追い打ちを掛けるかの如く走って帰れ?
どれだけマゾなんだ。
そうじゃないなら──
「ごめん、荷物お願いするね。これ地図」
その後も黙って見守り、休憩の度にドリンクを渡しつつ圭はトレーニングを終えた。
時折苦しそうにしながらも真剣な表情でストレッチをする所まで見ても、未だこの光景が信じられない。
優男。薄幸。美少年。彼を形成する様々な要素から到底かけ離れた光景を、実際にこの目で見ても夢か幻にしか思えなかった。
普段から柔和そうな笑顔を浮かべて、サッカーをする時は鋭い目つきで練習を行うギャップを見ていても。
鬼気迫る表情で、言葉にならない声を上げながら、フィジカルトレーニングを行う姿は、とても想像出来なかった。
だが。
自分の事に無頓着で、普段どう思われているかなど考えず。
サッカーIQが高いなら、当然自分の弱点にも気付いていて。
本当にサッカーが好きで、どんな厳しいトレーニングにも耐えられる程なら。
”獅堂圭”と言う人間をよく考えてみれば、先程までとは打って変わって、自宅へ走り出した光景もすんなりと納得する事が出来た。
何の事は無い。
何も変わらない。
ただ私が、彼の事を深く理解してなかっただけなんだ。
トレーニングルームの鍵を掛け、駐輪場へ行き、いつもより大分多い荷物を何とか籠に乗せて。
ペダルを漕ぐ足は、長く付き合わされた精神的な疲労からは程遠い軽やかなものだった。
圭の家に着いたら、せめて帰って来るまでは待ってあげよう。
お疲れ様、ぐらいは言ってあげよう。そんな気分だった。
第二幕でした。
それではまた第三幕でお会いしましょう。