直に分かる
それからの日々は、地獄とは言わないまでも壮絶なものだった。
朝練をこなし、授業を聞き、また練習をし、その後にトレーニングあと食事。
トレーニングの内容自体に不満は無いし、むしろ僕の為に内容を考えてくれた事には素直に感謝する。
授業の中に体育があって、それが長距離ともなろうものなら心の中で悲鳴を上げるけれど。
僕を、高みへ導いてくれる。その気持ちは身体で感じる事が出来た。
「上背がそれ程無いお前に、富屋の様なプレーは望まない。望めない」
ボスバランスと呼ばれる、球体を半分に切った様な弾力性のある素材。それの平面を上にし、両手を付いて腕立て伏せ。
前澤監督はその最中に、いやトレーニング中は殆どその場を離れず、時折今の様に僕に語り掛けてくる。以前用があって立ち会えない際には、瀬能さんが代わりに立ち会ってくれた。
富屋先輩のプレースタイルの特徴は上げていけばそれこそ多岐に渡るが、その一つが”体格を活かした豪快なプレー”である。
180cm以上ある身長の上に体格も良く、両手を使ったキープ、肩のぶつかり合いにも全く倒れる事のない強靭な筋力とボディバランス。
注目度が高く、執拗なマークを受ける事も多い彼だが、それを諸共せず平然とかわしてボールを運ぶ姿は”闘牛士”とメディアから呼ばれている程。
「ある程度筋肉を付けて貰うが、それは最低限競り合いに負けて貰っては困るからだ」
レッグカールマシンと呼ばれる、脚の後ろ側を鍛える目的の機械。トレーニングが難しい反面怪我も多いハムストリングが鍛えられる。
少しぶつかるだけで倒れる様では話にならない。つまり今の僕は、話になっていない。
その意味でも中学時代はプレッシャーがあまり掛からない中盤の底、ボランチの位置でやっていたのだ。
「お前を富屋と組ませた理由。それは基本的な技術を継承して貰いたいからであって、身体の使い方等は参考程度にしておけ」
ラットプルダウンと言うトレーニングを、これまた専用の機械で背中、肩甲骨あたりを意識しながら行う。
そこまでは分かったが、そこから。
僕を、果たしてどの様な選手にしたいのかは見えて来ない。
「……安心しろ。これから先は、直に分かる」
今度はバーベルを握って首に載せてのスクワット。膝を傷めない様にだけ気を付ける。
踏ん張りながら喋るどころでは無い僕の様子を見ながら、前澤監督は僕の問いに答える。
こう言う所は変わらない。
変わらず、気分が良いものでは無い。今回ばかりはそれが有り難いだけに、尚更。
そして、こう言う勿体振る所も。
他にも様々なトレーニングを重ね、時折前障監督が何かを語り、室内でのトレーニングが終わると片付け。
荷物を纏め、それを渡し、最後のトレーニングへと移る。
「……よし、行きますか」
辺りはすっかり暗く、学校の外は街灯の光で溢れている。
トレーニング室と校門の鍵は、前澤監督が所有し持ち帰っているらしい。
朝練もサッカー部以外行っていないし、最後に帰るのもサッカー部。トレーニング室についてもサッカー部以外使用する事は殆ど無い。
僕が学校から出たのを確認して施錠を行い、前澤監督は既に校門前に回してあった自家用車を走らせた。目的地は僕の家。荷物を届ける為だ。
初日に身体中が悲鳴を上げ、学校外まで歩く事すらままならなかった僕を、校門まで肩は貸してくれたものの校門を出た瞬間腕を離し、施錠して直様出て行った時は正直殺意さえ湧いた。せめて校門まで車で送ると言う発想は無かったのだろうか。
それから一ヶ月。
相変わらず身体は軋むが、今では何とか家まで走って帰れるぐらいにはなった。
自宅までは10kmぐらい。それを一日の最後に持ってくるあの男の性格が改めて良く分かる。残念ながら僕はマゾでは無いので、怒りが湧くのも仕方が無いだろう。
大きく息を吸い、吐き出し、走り始める。
走りながら考えるのは、この一ヶ月間の事。
入学後一週間も早かったが、それからの一ヶ月もまた早かった。
まずは、学園生活。
この一ヶ月の間で、予想した通り僕の身の回りは随分と静かになった。
廊下を歩けば注目を浴び、職員室に入れば「来たか問題児」と冗談を浴びせられる。
おそらく安生さんの働きかけもあって、この中間においても僕の役回りは宇野森の頃とさほど変わらないものになっていた。
「……でさー、その時のシーンがまたエロいのなんのって」
「出た出た。伊藤っていつもドラマのそう言う所しか見てないの?」
「アホか、男ならついつい見るもんだっつーの。獅堂もそう思うよな?」
休み時間、最早お馴染みの光景となりつつある、僕の机を囲んでの世間話。
今の様に、伊藤と安生さんはほぼ固定面子。その他にも、休み時間事に混ざって来る者は違う。
注目を浴びている事に変わりはないが、思えば宇野森でもいつもこんな感じだった。気付いた所で何も変わらない。
……昔からそうだったけど、安生さん隣のクラスとは言え毎回良く来るなあ。
「いや、そもそもドラマとか見ないし……」
「ほらー。獅堂君はあんたみたいな俗世に塗れたケダモノとは違うのよ」
「そうよそうよ。どうせ伊藤は部活が終わったら毎日コンビニの前にしゃがんで駄弁ってる振りして女子高生のスカートの中覗こうとしてるんでしょ」
「何でそこまで言われにゃならんのだ。大体お前ら女子も獅堂の事誤解している! 同じ部活の俺が断言する!!」
部活でもそう言う類の話をした事が無いのに、伊藤は自信満々で答える。毎度毎度周りから酷い事を言われてるのに、全く気にしていないのは凄い。見習いたくは無いけれど。
確かに伊藤の言う通り、僕にだって性欲ぐらいは有るし、見ないだけで実際ドラマを見ていてそんな場面に出くわしたら凝視してしまうかもしれない。
そんなドラマを見るんだったら、サッカーの勉強でもしようと思うだけで。
前澤監督は身体のトレーニングだけで無く、頭のトレーニングも重要視する。
なので家に帰ってから見る様にとDVDを渡された。内容は国内リーグや海外リーグの試合、代表戦、技術指南など多岐に渡る。
しかも見るだけでなく、思い付いた事はどんどん富屋先輩や自分に言ってみろと言う。僕に渡す物は全て、自分は勿論富屋先輩も見ているらしい。
気になった所は何度も観直し、見終わったら入れ替えでまた渡される。富屋先輩も未だに続けているらしいし、恐らく三年間見続けても終わらないだろう。他の物を見ている暇は無い。
「えー嘘でしょ。宇野森の男子も、獅堂はサッカー馬鹿だーしか言って無かったし」
「確かに獅堂はサッカー馬鹿。大馬鹿と言っていい。だが!」
机を叩き、溜めを作る。そこまでして言う事なのかなあ。と言うか伊藤も伊藤で結構酷い言い様だなあ。否定はしないけど。
「断言する。お前ら耳の穴をカッぽじってよーく聞きやがれ。獅堂はなあ……」
「し、獅堂君は……!?」
周りが息を呑むのが分かる。さり気なく聞こうとしていたはずのクラスメイトは、僕の机を詰めるように囲んでいた。あまりに前のめりで押し潰されないか怖い。
でも懐かしい、こんな事入学式にもあった。自分の事にも気付いてなかったけれど、思えばその時も伊藤に教えて貰ったんだっけ。
言い辛いと言うか、本人が無自覚だから却って言えない事を、伊藤はあっさりと言えるだけの強さがある。いや全然あっさりしてないし、そもそもそれが強さとは違う気もするけど。
そして。
「巨乳好きなんだよ!!」
その時と同じ様に、いやそれ以上のしたり顔で言い放った。
その後「死ね」とか「埋める」とか物騒な事を言いながら押し潰された伊藤の姿があった。
僕は僕で、更にその後涙目になりながら「違うよね? 獅堂君はそんな人じゃないよね?」などと言いながら詰め寄ってくる女生徒のプレッシャーに押し潰されそうになった。
その後ろで何故か先程までの伊藤と同じ様な顔をしていた女生徒と、僕を囲んだ女生徒の差は、僕の口からは言え無い。
ただ後ろに居る女生徒の顔の下は、一様に腕を組んで持ち上げていた。
それが何なのかは、少し前屈みになっている男生徒から汲み取って貰うしか無い。
後でお礼を言われても、困る。
……困ると言えば、こんな事もあった。
こんな事もある、と言った方が正しいのだろうか。
昼休み、中庭。
いつもなら、と言ってもいいのか分からないがこの時間も例によって、伊藤と安生さんを筆頭にクラスメイト達と食事を摂る。
こんな言い方をするには訳がある。それは、
「す、好きです! 良かったら付き合って貰えませんか!?」
こう言う事が、結構な頻度であるからだ。
入学して直ぐに告白され、初めは困惑しながらも断りを入れて。
その時が昼休みであった事からか、僕へのこう言った行為は主に昼休みに行われる事が多くなった。
もしくは入学初日の自己紹介で「早くクラスに馴染みたい」と言った事が効いているのかもしれない。
朝と放課後は部活の僕が空くと言えば休み時間。以前部活終了まで待ってくれた女生徒も居たのだが、あまりに僕が出て来ないので結局次の日の昼休みにしたと言われた事もある。
一切グラウンドには来ず、完全に部活が終了して帰る所を見計らってくれた事には嬉しかったものの、返事については別。彼女には申し訳無いが、気持ちだけ頂く事とした。
なので残る休み時間、しかしその時間さえ頻繁に席を外していては馴染め無い。そう言う事で、告白するなら昼休みに絞ると言った同盟みたいなものが組まされている様だ。
その事を何故知っているのかと言えば、実の所確かめてはいない。しかし、安生さんから以前にも同盟なるものはあったらしいので、恐らくここ中間でも同じ事をしていると想像が付く。
もう僕の周りで何が起こっても驚きはしなくなった。それが堂々としている、と言うよりは単に開き直ってるだけなのかもしれないが。
「……ごめんなさい。僕は君とは付き合えない」
だから、こう言った言葉も直ぐに出るぐらいにはなった。少しだけ間を入れたのは、考える仕草を見せる為。
一応仕草だけで無く、実際付き合うかどうか考えてはいる。目の前の少女は小動物的な可愛さを持ち、僕の返事を聞くまで震えていた。
こんな僕の為に、精一杯の勇気を振り絞って思いを伝えてくれた。その事は素直に嬉しかったし、贔屓目に見なくてもこの子は可愛い。”守ってあげたい”と思う男生徒も多いと思う。
けれど、やっぱり答えは変わらなかった。
すると彼女は断りの返事を聞いたにも関わらず、悲しむ仕草では無く言葉をそのまま受け取り、胸に仕舞う様に手を添える。
「分かっていました……でも、ありがとうございます。ちゃんと振ってくれて」
どう断れば一番いいのかは分からない。
でも、今の所僕は誰とも付き合うつもりは無い。なら、含みを持たせずストレートに断った方がいいと思った。
傷付くかもしれない。僕に悪評が流れるかもしれない。
それでも。
偽善者と言われようとも、いや偽善者だからこそ。
醜い本性を持つ僕に、何時までも未練を持って欲しくは無い。もっとまともな人と、清い交際をして欲しい。
僕よりまともで、優しくて、彼女を大切にしてくれる人はいっぱいいるだろうから。
だから。
「お礼をされる程、優しい言葉を掛けたつもりは無いけれど、ね」
この言葉は本心だ。酷い行いとさえ思う。
結局の所、自己満足に過ぎないのだから。
「いいえ。獅堂さんの優しさは伝わって来ましたから」
「……そっか」
それでも、そう伝わるのなら悪くは無い。
世間一般での”いいひと”では無くても、彼女にとって”いい人”になれるなら。
優しい思い出として、決別出来るのなら。
正解が何かは分からないけれど、少なくとも不正解では無い。そう思えた。
とまあ学園生活では、入学前に思った事とは全く違うものの、概ね満足して過ごせている。
告白についても最近は頻度が減っているし、獅堂圭と言う人物像は固まりつつある。
女っ気のないサッカー馬鹿。僕に告白する事が、付き合いたいと思う事が無意味だと浸透すれば、もう少し過ごし易くなるかもしれない。
告白と言う行為自体を否定している訳では無いし、僕なんかを好いてくれるのは嬉しいと思う。
だからこそ断ると言う行為に精神を削られたくない。僕を好いている子を、いやそうでなくても人を傷付けるような事はしたく無い。
だけど、この事によって多少成長したかもしれないとも実感する。
周りの顔を伺い、自分に火の粉が来ない様に振舞ってきた今までとは、少し心持ちが変わった。
上辺だけでは無く、本当の意味で相手を思いやる事を考え始めた。
そしてそれが結果的に良くない方向へ進もうとも、自分のした事に責任を持つ。
幸いにも今の所自らの行為で不平不満を聞いた事は無い。告白に関しても、僕に対して酷いなどと言ってくる子はいない。
いないだけで、陰で言っている者も居るかもしれない。
それでも。
せめて自分の行いには責任を持ち、堂々としていよう。
形だけかもしれないけれど。
そうする事で、彼女に少しでも近付けるのならば。
「……」
「……」
帰り道にある、極普通の一軒家。
夕食時はとっくに過ぎ、一般家庭なら家族でお風呂に入る順番を決めている様な時間に、玄関に一人の少女が居た。
過去形であり、今はとっくに通り過ぎてしまったが。ふんわりと香るいい匂いがまだ鼻に残っている。
毎日何の用があるのか、玄関に居て僕に挨拶をしてくれる。
何も言わずに、会釈だけ。
でもそれで充分だ。
彼女が見ている。
佐倉香澄美さんが、僕を見ていてくれている。
そんな気がするだけでも、充分だ。