少年編 35
夕暮れの石畳の道路を車輪が走る。
(失敗したなぁ……村に近付きすぎたか)
ロンバルディア領を目指すマイス一行は、オールズ領南端の小さな村を駆けていた。
平穏に、かつ出来る限り周囲と関わらないようにと配慮した結果、
「待てーー!」
「そこの二人、すぐに止まりなさい!」
南部を巡回中の街道警備隊に怪しまれてしまったのだった。
長く、人々の往来を支えた古い街道は石畳の表面が磨り減り、石と石の間に入り込んだ砂利が踏み固められて滑らかな平面と化していた。そこに目を向ける者がいれば長い歴史を感じずにはいられないだろう。おかげで車輪は大小を問わず振動は少なく、軽やかに回るのだ。
「きゃははははは!」
「ミューリ、笑ったら危ないから」
その長い歴史の上を、少女の笑声が駆け抜けていく。オールズ領の南口にあたる村は街道に沿って新たに興ったまだ小さな村でしかないが、開拓中の村には開墾に伴う資源の発掘という大きな役割がある。大陸内には木材や石材、粘土等はまだまだ大きな需要があるのだ。その為街道警備隊の往来は定期的に行われ、たまさかそれに出会ってしまったのがマイスの逃走劇の始まりとなってしまった。
年若い少年が怪我をした少女を籠に乗せて都市を目指す。それだけであれば逆に保護を買って出る者も少なからずいるだろうが、そこに獣人が加われば話は別となる。
例え目的が明確であっても、平穏を望む多くの人族からは忌避されてしまうし、警備隊としても帝国の中央へ近付けたくは無い。そう思われてしまうのが獣人なのだ。
そのはっきりとした目的がない事も、三人の怪しさを増してしまい、結果として追われる身となってしまったのだが、その顔に悲壮や焦燥は無かった。
彼等を追うのは南天の騎士ではなく、ルデリックと同じく白のマントを羽織る中央の正騎士とその従騎士達である。
少ない騎兵は本隊の守備に回り、鉄の板金鎧に小手とブーツに剣を佩いた騎士二人と、鎖帷子姿の従騎士が五人ばかり不審者へと向けられた。
そんな中でミューリが笑っていられるのもマイスへの信頼に他ならず、マイス自身も輝石の加護による強化からの自信があるからだ。とはいえ、ミューリには追われている理由がわからず、遊んでいるような感覚でしかなったが。
「うるサイ連中……蹴散ラス」
唯一、ファウだけは追われる事に我慢が出来ないようで不満を口にしていた。
獣人として人より身体能力が高い上に輝石の加護は彼女のそれもさらに大きく飛躍させていた。加えて魔物との戦闘経験もあるファウにとって、弱者から逃げるというのは捕食者としてのプライドが許さないのだろう。
とはいえ相手は帝国の正規兵であり、実戦を経験した騎士がいるのではと思うと流石にマイスも積極的になれなかった。
冬の間にシュバルツラントの地でルデリック相手にファウとマイスが二人がかりで挑んでも、一度も勝った試しが無いのだ。それが帝国騎士の基準でないにせよ、卓越した技術と経験は身体能力の差を埋めるという実例を経験していた為に、ファウの好戦的な性格を御する事がマイスには大変だと改めて実感した。
「駄目だってファウ。柵を越えよう。あっちだ」
村と外とを隔てる防護柵は大人の背丈の倍はある。多少なりとも余裕を持って走る二人だが警備兵との距離は少しずつ離れていた。それが僅かなりとも追撃者達に希望を与えていたが、それが無残にも破られる。
突如として先行者達の足元から砂煙がわきあがり、その姿を曇らせた。後続との距離が瞬く間に広がり、みるみるその後ろ姿を小さくしていった。そして石畳を離れて向かう先には境界である柵。
「いくよ。いち、にの、さん!」
「ふぁっ!?」
手押し車をマイスとファウが左右から持ち、二人と一台は軽々と黄昏の空を舞った。追走者達は突然の事に唖然とし、ついで膝を追って空を仰いだ。荒い息と喪失感に苛まれながら、報告の為に再び立ち上がるには、少しばかりの時間を要す事になる。
「ぅきゃっ!」
空中で、車から浮き上がったミューリをファウが。車をマイスが抱いて着地する。そのまま砂煙を上げて無言のまま疾走する二人が足を止めたのは、夜の帳が完全に落ちる直前の、薄暗闇であった。目の前には真昼でも暗い影の差す深い森。完全な日暮れまでに早急に野営の準備を始めなければならないが、そこで車に戻ったミューリは始めて口を開くと
「お空飛んでドキドキしちゃった!」
薄暗闇の中でもはっきりと判るほどに瞳を輝かせるミューリの一言に、マイスとファウは顔を見合わせると同時に噴出すのだった。
距離をとったとはいえ、夜通し探されれば見つかってしまう距離である。黒い壁の如く立ちはだかる森に入るのは危険だと判断し、簡単に夕食を済ませると松明を片手に森にそって東へと移動する。
ロンバルディア領は遠く、地図によればこの森の先は起伏の激しい丘陵地帯へと変わるようであった。ミューリの小さな寝息は、森から聞こえる夜鳩の声と獣の遠吠えに時折かき消され、微かな月明かりは時折雲に遮られて闇夜を生む。
ミューリの車は障害物が多い道には向かない。この森も、その先の丘も想像以上に険しいものになるだろう。
そんな不安に気をとられていたマイスを、アイスブルーの瞳が捉えていた。
「おイ。その顔ヤメロ。ミューリ不安になる」
いつから顔に出ていたんだろうか、と無意識にマイスは自分の顔をさすった。その手に小さな手が被せられる。
「ダイジョウブ。ファウもいる。だから、大丈夫」
自信に満ちた言葉同様に、その瞳は淀み無く銀の瞳を見つめていた。
出所不明の自信にマイスは苦笑いするが、この獣人に言われると不思議にそう思わされてしまう。
(これも、強さなんだろうか……それともボクが心配性なだけ?)
重ねた小さな手は小さく心地よい温もりを持っていた。染み込んだそれは不安に凝り固まろうとした彼の心をも溶かし、穏やかな笑みを作らせた。
「そうだね。うん。ありがとう、ファウ」
「リーダーは揺らガナイ。だから群レついて来ル。自信モテ」
まるで帝王学のようだ。と、マイスはルデリックの講義を思い出した。そしてクスリと笑うと、目の前の獣人もまた同じ様に口角を上げて顔を覗き込んでいた。
頬から離れた手は少年の肩を掴み、
「自信無クテモ、それでも付いテいく」
再び姿を現した月が映す影は、二人の小さな顔が重なっていた。
「火事とな?」
「はい。開拓村から運び込んだ木材の四割が焼失したそうです」
開拓村から切り出された木材は枝を払い、長さを揃えてオールズの膝元へと集められた。ひと冬を乾燥小屋でねかせた後、各地へと運ばれるのだ。だがこの春先の陽気にも関わらず、暗雲の如く立ち昇る黒煙がオールズの空を覆うこと数回。実に半数に近い量の木材が建材として利用不可能となってしまった。
「放火である事は確かですが、まだ目的と犯人の特定までは出来ていません」
オールズ天領、白亜の冠邸の執務室では、館の主であるマスティフ、そしてオールズの騎士マリオンが向かい合っていた。報告書を読み上げる養子候補に向かってマスティフは椅子を軋ませて天井を仰いだ。
「頭の痛い事よなぁ……これでは南部の開発予算が大幅に削られることになるのぉ」
大仰な仕草だが、どこか愛嬌の片鱗すら感じるのは彼のその丸い体躯か、あるいはその心底にある愉悦のせいか。
「しかしこれも良い機会かもしれんの。マリオン。この件見事解決してみせい」
「自分が、ですか」
マリオンの養子縁組は、当人達の間では確たるものであったが、未だ公開はされていない。
いかに才能の片鱗を見せているとはいえ、多くの民衆は未だマリオンの事を見知らない者の方が遥かに多いのだ。彼の親のいない境遇を理由にした所で、そんな子供は少なくない。それゆえに養子に迎えるには相応の実績を求められていた。
だがここに、血の滲む様な労働の結果を灰にされ、怒れる民衆の声がある。悪行を裁き、平穏を望む民を若き騎士が救う。跡取りに恵まれぬ領主はその働きに心を打たれ、騎士を養子に迎える。話題性は十分だろう。
マリオンはそれを察し、全力をつくすことを誓う。
「うむ。困った事があればガラテアを頼め。屋敷の事でも庶民の事でも、十分に役立てるように仕込んであるからの。もう数日もすれば、帰ってくるだろう」
「……はい。準備の為に、失礼します」
ガラテアの名を出され、マリオンの顔が強張る。次いで出た言葉を言い切らぬうちに、彼は扉へと向かっていた。
自室へと向かうマリオンの胸中は疑問が渦を巻いていた。
なぜ、姉は涙を流しながら夜毎現れるのか。
なぜ、姉の涙だけが、ああして石になるのか。
なぜ、自分なのだろうか。
日を重ねる毎に。
体を重ねる毎に、マリオンはいつしかガラテアの姿を追うようになっていた。
村にいた頃から厳しくも頼りになる姉であった。その容姿は村を出て多くの人を知った今、誰よりも綺麗だとも思う。だが彼女を追うマリオンの視線はそれが恋慕の為か、罪悪感なのか、未だにマリオンは気づけずにいた。ただ、どこかで彼女を求め、依存し始めていた。
誰もいない自室に足を踏み入れ、マリオンは頭を振った。体を重ねて以来、思い出す彼女の姿は常に儚げな笑顔を浮かべ、その首から下は一糸纏わぬ裸身を晒していた。
ガラテアの肢体を脳裏から追いやる。机についた両手は、漏れた言葉と同じく震え、固く握られていた。
「マイス……俺はお前になんて言ったらいいんだ……!」
時は少し巻き戻る。
「マリオン卿の従士だと?」
ギュネイ領へ向かう使者の先触れに、領主であるギリアン男爵は眉をひそめた。望まぬ客である。
(気に入らんな。あの小僧がこのダイスの領主になど、二十年早い)
それが第一に。
(シャロンを追い出し、小僧を傀儡にでも仕立てる腹積もりか。女狐め)
次に怒り。ダイスの武の一端を担う領主が怒りをむき出しにするような事は、屋敷内では滅多にない事であった。執務室は息を呑むのも汗をかくほどの重圧に満たされた。




