少年編 32
「大丈夫ですか? 心配したのですよ?」
蝋燭の灯りが照らす見慣れた天井。静かな声はどこまでも優しかった。
体の重みは、今度は彼にしがみ付いて寝ているミューリとファウのせいである。
マイスの額のタオルを、寝汗を拭くためにフォーリアは冷水に浸した。外は風の音だけが微かに聞こえるだけで、部屋はフォーリアの衣擦れと水の音だけ。静かな夜だった。
「僕は……」
「人を殺した?」
騎士を。と言えずにマイスはただ頷いた。今、目の前にいるのは騎士を統べる皇帝、否。帝国の後見人である。畏怖もあった。だが、今の彼女は唯一の頼れる存在であり、関係が壊れてしまうのが何より嫌だったのだ。
「マイス。騎士とは戦う者です。しかし、ただ力を振るうのは単なる暴力。故に力の統率者であり矛先の指揮者である帝国と皇帝がいるのですよ」
はっと息を呑むマイスの顔を、首筋を冷たいタオルが拭っていく。
事実、フォーリアは村での戦闘報告を受けていた。いかに閉ざされた地とはいえ、その方法くらいはあるのだ。
「彼等にとって、戦いの中で命を落とすのは本望。それを哀れんではなりません。彼等の矜持を汚す事になりますから」
パシャリ。
タオルが再び冷水に付けられ、絞られる。
「マイス。輝士にとって最も大切な事はなんだと思います?」
「……信頼?」
「いいえ。精霊の力を駆り、戦う事です」
超常の力を振るうたびに、その力を預かるに相応しくあろう、とマイスは思っていた。そのためには、やはり認められることなのでは、と。
それを優しくも、しかし力の籠った声でフォーリアは否定した。
「精霊と意思を交え、声を聞くまでに彼等に認められなさい。輝士とは仲介者。自然の声を聞き、その架け橋となる者」
フォーリアから見れば、マイスはただ適正と魔力を有しているが故に、それを対価に無条件に力を借りているだけに過ぎない。
彼女にとって真に守護精霊に認められた者とは、自然の意思の化身たる彼等と言葉を交わす者であり、その叡智を授かる者をいうのだ。
「その末は、人の導き手となるのか、あるいは再び終末の鐘を鳴らすか……貴方はどちらかしらね」
身の振り方は春に改めて聞くとしましょう。
そう言って音も無く部屋を出て行くフォーリアの背中を見送ると、額のタオルを置き直す。
一体どれほど繰り返したのか。額にタオルを乗せられた時に見た彼女の手は赤く色付いていた。
その手に引かれて買い物に出た時は、もっと白く、柔らかいものだったはずなのに。
国母ほどの者が何故ここまで、と思うマイスは結局答えが出せずに目を閉じた。
フォーリアとの会話で耳に入ってなかった風の音が、再び聞こえ始めた。
「国母殿」
「ルデリック。首尾は」
「たいして武器を握ったことの無い手でした。骨格の歪みも無く、一見して一般人のようにも見えますな」
刺客の体を調べ上げた報告を受けて、フォーリアは僅かに眉を顰めた。
襲撃の様子を思い出す。
炎の結界を解いたと同時に頭上と背後から襲い掛かってきた白装束の二人組。
議事堂からついて来ていた隠行は未熟とまでは言わないが、フォーリア相手には分が悪かった。何せ周囲にある不穏なものは全て精霊に看破され、彼女の耳に届けられるのだ。
それに穏行に比べて、動きはさらに未熟であった。あまりに単純な直線的な襲撃は、迎撃も容易すぎた。光条に胸を貫かれた男達は一瞬で絶命してしまう。
二十代後半と思われる人族の男は、確かに鍛えられてはいるがそれ以外の情報を持っていなかった。
軍人であれば剣や槍を使い込んだ掌は硬く、胼胝が出来るものだ。また四六時中武器を体に下げていれば、持っている側の肩が落ちたり反対側へ体が傾ぐ。鎧を着けていれば、体にあたる部分が同じく胼胝になったりと何かしらかの情報はあるはずだった。
(流石に単なる物取りはないでしょうが)
真冬に食い詰め者が、という可能性もゼロではない。が、逆に武具を必要としない暗殺者であれば、今度は情報を聞き出す専門家がいないのでやはり結果は同じだ。
「まぁ、良いでしょう。ルデリック。春からの事で頼みがあるのですが」
「これは珍しい。……謹んでお受けいたします。我等が国母よ」
金髪の輝士は臣下の礼をとった。
シュバルツラントほどの豪雪ではないが、オールズ領も冬が早く、深い。
伸ばした指先すら見えなくなるほどの吹雪では、誰も家を出ようとはしなかった。それは騎士も同じである。
シャロンの私室ではテーブルの盤上で青と銀の駒が向かい合っていた。
青はマリオン。銀はシャロンだ。形のイメージが固まってきたのか、最近はマリオンも駒を武器だけでなく、人型で作れるようになっていた。
読書に政務。消耗品の備蓄を作る雑用。後回しにしていた掃除と思い思いの仕事に従事する使用人達が屋敷を動き回る中、マリオンはシャロンと『軍揮』に興じていた。
といっても真面目な指し合いではなく、定跡も読みあいも無く、深く考えずに思いつくまま適当に打つだけ。
ガラテアの淹れた紅茶を片手に、マリオンは朝から素振りや筋力トレーニング後の心地よい疲労感に浸った頭で。シャロンは分厚い史記を読みながらで、傍目にも真面目な指し合いではない事が見て取れる。
「カインは生前お前をかっていてな。父にも手紙を出していた」
壁に掛けられた小さな額縁には老騎士の肖像画が収められ、シャロンは時折遠い目でそれを眺めていた。
「今は未熟だが近年稀に見る才能だ。とか騎士団へ招くべきだ。とか私より素直だとか、な」
マリオンは久しぶりに彼女が笑みを浮かべたるのを見た。苦笑いではあったが、晩餐会以降どこか距離を置かれているような気がしてならなかった。
騎士として館に移り住んで以来、周囲にいるのは上司か年上の使用人達ばかり。同年代、同僚のような仲間がいないのだ。気の許せる人物から距離を置かれるのが何より不安になってしまうのは仕方なかった。
「お前を私の……」
安堵したのも束の間。そこまで言いかけて、シャロンは口を閉ざした。目を伏せ、眉間に皺を寄せる。
(今更なんというのか。夫に……伴侶に……)
子爵が戻ってからというもの、彼女はあまり笑わなくなった。代わりによく物思いに耽るようになった。だからと言って何かを聞き逃したりすることは無く、行動や指示も以前同様的確であり、軍揮においてもマリオンは一度も勝てていない。
師のこの変わりようにマリオンはどうするべきか迷っていた。ガラテアに相談しても、ちょっと困った顔で彼女は『女性には色々あるものです』とはぐらかされた。
『私に何か一つでも勝てたら、春からも残ってやってもいいぞ』
おまけにそうまで言われたのに、剣でも、体力でも、軍揮においても全く敵わない。まだまだ師との間には巨大な壁があった。マリオンはその壁が、手の届かないうちにシャロンがどこかに行ってしまうのではないかと絶望的に思えてしかたなかった。
「ロンバルディアの騎士になってくれればと誘ったのだがな――」
マリオンが叙勲式で断った話だ。そして覆すには遅すぎた。彼は既にオールズの騎士なのだから。
盤上は今日も一方的な殲滅戦が続けられ、十回もそれが繰り返された戦場はマリオンの眠気と共に終わりを迎えた。
常に視界に入るように立って居るのでは、と思ってしまう小柄な従者に支えられて退室するのを、見届けるとシャロンは先ほど内に沸いた感情に一人ごちる。
「嫉妬か……浅ましいな、女は。爺。面倒だぞ女は。こんなのを抱えて生きなければならないのか?」
肖像画の騎士から、返事はなかった。
「僕を養子に?」
部屋へ戻ったマリオンは改めてガラテアの淹れた紅茶を啜る。村にいた頃は水はすぐ傍に流れる川から好きなだけ取れたのだが、大きな町になるとそうはいかない。ゴミや排泄物が多くなる以上伝染病の危険性が高まるのだという。
紅茶自体の抗菌殺菌効果もさることながら、煮沸ついでに手に入るお湯を使える為手間のかからない贅沢品として広まっている。
「えぇ。オールズ卿はあなたの才能を褒めていたわ。それに、もう田舎の子供じゃないのだから姓は必要よ?」
最下級とはいえ、騎士も貴族の一員である。領地を持つ可能性がありながら姓を持たない者はいない。それ以前に、一人の男として世帯を持つ時期にも差し掛かっているのだ。
「オールズ領の輝士はまだ子爵だけだもの。よっぽどあなたが欲しいのね」
村にいた頃より少し大人びた口調のガラテアは、マリオンに二人でいる時だけは、と主従の関係を崩していた。
『気が休まらない』
仲の良かった姉が四六時中近くに居て、それが主従という堅苦しい関係では部屋の中までいて欲しくない。
そうまで言われてはガラテアも態度を変えるしかなかった。彼女にとってもマリオンは数少ない家族同然の、弟のようなものなのだ。マリオンと離れる事は望むわけがなかった。
とはいえ、流石に口にして良い事位は弁えている。養子の話にしても薦めるでも断らせるでもなく、判断はマリオンに委ねる。
マリオンも「どうしたらいい?」などとは聞かなかった。誘われるのは自分なのだから。
「時期に正式に誘われると思うから、どうするかだけは考えておきなさいよ」
「養子……ねぇ」
両親のいないマリオンにとって、決して悪い話ではなかった。領主の家に迎え入れられる事など、庶民には夢のような事だと、兵舎にいた頃に仲間が言っていた事を思い出す。
不便をあげるなら騎士以上の煩わしさだろうか。三日でも嫌気が差すあのパーティーが毎日のようにあるなど正直断りたい事この上ない。
しかし、権力に興味は無いが、どうしても手に入れたいものはある。
親友の、せめてもの情報。足の届く限りの酒場や宿に人相を告げて情報を求めてはいるが、一向にそれらしい人物が現れた形跡が無いのだ。
『偉いってのは金があるってことさね。だから人を使える。で、数は力になる。より人を沢山動かせる領主様貴族様には逆らっちゃ駄目ってことさ』
マリオンが思い出したのは初めて出会った輝士の言葉だった。
結局、セルビアとも別れて以来会えていない。叙勲式の際も城下に出歩けるほどの時間が無く、探すことすら出来ていなかった。
ガラテアがこうして隣にいる事が、マイスともまた一緒に暮らせるのではないかという希望に思えてしまう。とはいえ何もしないままでは、マイスとの再会がいつになるか判らない。
(出来る限りのことはしよう。それが多少のデメリットがあっても……折角の幸運なんだ)
マリオンはこの申し出を受ける事を決める。親友との再会を一心に願って。
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