鶴の恩返し
サラリーマンのMはある日の通勤途中、傷ついた鶴を見かけた。
初冬の早朝の出来事であった。
出社時間にはまだ余裕があったというのもあるが、何より彼は幼い頃に読み聞かされた『鶴の恩返し』を思い出し、その鶴を連れ、近くの野生動物保護センターまで車を走らせた。
そして受付係に事情を話し、助けた鶴を引き取ってもらい
「あの話のように恩返しに来てくれるに違いない」
と、期待に胸を膨らませ会社へと向かうのだった。
「恩返しに来てくれる鶴はきっとあの民話のような美しい女性だろう」
彼は鶴がいつ恩返しに来ても良いように、鶴のための部屋や洋服、日用品などを揃えた。
しかし、いつまで経っても鶴は恩返しには来なかった。
月日は流れ、彼は遠方の親類からの紹介で知り合った女性と結婚した。
結婚当初、妻はMが女性物の洋服や化粧品、更には使用していないのにも関わらず、立ち入りを禁じている部屋がある事を怪訝に思い、幾度となくMに問い詰めた。
だが彼は決してその理由を口にする事はなかった。
Mは頑なに鶴を待ち続けた。
Mは妻との間に2人の子を儲けた。
妻と育児の事でもめた時や、子供達の将来について口論になった時などは、
「いつか鶴が恩返しに来てくれる。それまでの辛抱だ」
と自分に言い聞かせ、まだ見ぬ鶴に思いを馳せた。
更に月日は流れた。
Mは古稀の祝いを数年過ぎた辺りから病を患い、喜寿を迎える頃には病室でほとんど寝たきりの生活を送っていた。
妻は毎日決まった時間に見舞いに来る。今日もそろそろ彼女が来る頃だ。
彼は、今の今まで自分を支えてくれた妻への深謝の思いを感じた。
内助の功とでも言おうか、仕事にかまけていた自分に代わり、家庭の事は全て妻がこなしてくれた。パートで家計を助けてもくれた。
外には初冬の寒風が吹いている。
「日に日に寒くなって来ましたね」
そう言いながら妻が病室に入って来た。
「自分はもう、そう長くはない」
「何を言っているんですか」
妻は呆れたように続ける。
「暖かい季節になったら、気分転換に外出でもしましょうよ。もちろん先生の許可を得てね」
柔らかな笑顔をMに向けた。
「……そういえば、この時期だったな」
鶴の恩返しなんてものは結局、ただの民話に過ぎなかった。それに気付くのにこんなに年月が掛かるなんて、なんとも滑稽な話しだ。
自分がそれを黙っていたせいで、妻とも何度も口論になった。
「……昔な、一匹の鶴を助けたんだよ」
なんの謝罪にもならないが、今まで隠し通してきた事を妻に打ち明けようと思った。
「その鶴が恩返しに来るのを期待して、部屋や洋服などを用意していたんだ。だけど鶴なんて来なかった。あの部屋の物や洋服は処分してくれていい。今まで黙っていてすまなかったな」
妻はMの言葉を聞き、一瞬驚いた表情を浮かべたが、合点がいったのかMに微笑みかけながら言った。
「部屋を用意してくれていたのなら、先に言って下さいよ」