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S地方に伝わるあるK談    :約5000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/05/17

 これは、私の叔父のGが大学時代に実際に体験した話なのですが……。


 叔父はK大学の温泉サークルに所属していた筋金入りの温泉マニアでした。温泉の話を始めれば止まらず、湯の匂いを嗅いだけで泉質や成分を言い当てると豪語していたくらいです。

 そんな叔父がある秋、友人のMと二人でA県にある名高いD温泉を目当てに旅行に出かけたそうです。

 D温泉は山間に佇む由緒ある温泉地で、古くから湯治場として知られ、泉質の良さは折り紙つき。湯に浸かっただけで古傷が癒えるだの、病が治るだのといった半ば伝説めいた話まで残っているそうです。

 しかし当時の叔父はB乏学生でしたので、宿代を少しでも抑えようと、観光案内にも小さくしか載っていない『F』という古びた旅館に泊まることにしたのです。


 F旅館は駅からかなり離れた山の中腹にあり、バスを降りてからも本当にこの道で合っているのかと不安になるほど、山道をしばらく歩かなければなりませんでした。道の両脇には背の高い木々が密集しており、昼間だというのに薄暗くて足元には湿った落ち葉が幾重にも積もっていたといいます。

 ようやくたどり着いた旅館は、木造二階建ての古びた建物でした。外壁の塗装は剥がれ落ち、露出した木材は黒ずみ、雨染みがまだら模様に広がっていました。看板の文字はカビでくすんでいて、判読に少し困るほどだったそうです。

 けれども叔父は、源泉かけ流しの風呂があるという一点だけで、むしろ掘り出し物を見つけたと期待を膨らませていたといいます。


「すみませーん……」


 ガラガラと少し引っかかる引き戸を開けて声をかけると、廊下の奥からギシリ、ギシリ……と床板を軋ませながら、ゆっくりと女将が姿を現しました。


「ようこそ、お越しくださいました……」


 女将のUはそう言って曲がった腰をさらに深く折り、丁寧に頭を下げました。喪服のように黒い着物をまとい、黒髪にはまだらに白髪が混じっていました。にたりと笑ったその顔は白く、頬のシミが目立つほどだったそうです。


「こちらへはお車で? お停めいただける場所がございますよ……」


「あ、いえ。電車で来ました。T本線でA駅まで出て、そこからO線に乗り換えてD駅で降りて、最後はバスに乗って……」


「あらあらそれは大変でしたねえ……。N県からですか?」


「いえ、K県のAからです」


「ああ、あそこは昔一度行ったことがありますよ……」


 そんな他愛もない会話を交わしながらチェックインを済ませ、二人は部屋へ案内されました。

 しかし、襖を開けて中へ一歩足を踏み入れた瞬間、叔父は思わず息を止めたそうです。

 畳は焦げ茶色に変色し、湿気を吸っているのか、あるいは長年踏みしめられたせいか、ところどころが不自然に波打っていました。砂壁は黄ばみ、指先で軽く触れただけでさらさらと粉が落ち、細かな塵が舞い上がりました。

 天井の木目は黒ずみ、丸い模様がいくつも浮かび上がっており、それらがまるで無数の目玉がこちらを見つめているかのように感じられたといいます。 

 部屋の隅には古びた座卓が置かれていましたが、脚の一本がわずかに短いのか、触れるたびにカタリと音を立てて不安定に揺れました。

 窓ガラスは土ぼこりを被ったように曇り、障子紙には茶色いシミが点々と広がっており、ところどころ破けていました。昼間だというのに部屋の中は薄暗く、電灯を点けても隅には濃い影が澱のように溜まったままだったそうです。

 押し入れの襖は湿気を吸っているのか妙に重く、開けた瞬間、むわっとしたカビ臭が鼻を突きました。

 中には布団が二組。やはりどちらもわずかに湿り気を帯びており、その臭いの元であることは明らかでした。

 空気を入れ替えようと窓を開けたのですが、外の空気までどこか淀んでいるように感じられ、部屋の重苦しさは一向に抜けません。息を吸うたびに喉の奥に薄い膜が付くような不快な感覚が残ったといいます。


 それでも二人は「まあ安宿だしな」と自分たちに言い聞かせるように笑い合い、気を取り直してさっそく浴場へ向かいました。

 廊下の突き当たりにある内湯は石造りで、照明は薄暗いながらもどこか風情がありました。湿った石の匂いに混じって、ほのかに漂う硫黄の香りが鼻をくすぐります。

 洗い場のシャワーは一つしかなく、湯船もそれほど広くはありませんでしたが、どうやら宿泊客は自分たち二人だけらしく、は感じなかったといいます。

 ただ――湯船の底が妙に深かったそうです。

 足を入れると思っていた以上に沈み込み、思わず「うおっ」と声を漏らしたそうです。湯の色もわずかに白く濁っていて、ぬめりがありました。

 二人が肩まで浸かり、旅の疲れをほどくように大きく息をついてしばらくしてからのことでした。

 隣にいたMがぽつりと呟きました。


「なんか……底から冷たいのが来るな」


 それは叔父も感じていたそうです。湯の一部分だけが妙に冷たいのです。しかもそれは一定の場所に留まってはいませんでした。足首のあたりをぬるりと撫でたかと思えば、今度は太ももの裏へ回り込む。まるで魚のようにぬらりと移動していくのです。

 もう一つ奇妙なことに、湯の底から時折ぷくりと小さな泡が浮かび上がってきては水面で弾けました。

 二人は「おい、屁こくなよ」や「変なとこ触るなよな」などと、わざとらしく軽口を叩き合って笑いました。

 けれどその笑い声はどこか上ずり、石壁に虚しく反響してはすぐに沈んでいきました。次第に会話は途切れ、浴場には泡がはじける音と湯の揺れる音だけが残りました。

 空気はじっとりと重くなり、どこか妖しい気配が漂い始め、やがて二人はほとんど無言のまま湯から上がったといいます。


「湯加減はいかがでしたか……?」


 廊下に出て部屋へ戻ろうとしたときでした。背後からO将が声をかけてきました。


「い、いやあ、最高でしたよ」


 叔父がぎこちなく笑顔を作り、そう答えました。すると女将のUはにたりと笑いました。


「あら……お好きなのをお部屋に持っていっていいのよ」


「え?」


 振り返るとMが腰を落とし、廊下の隅に置かれたマガジンラックを眺めていました。Mは少しだけ顔を上げ、「どうも」と言う代わりに軽く頭を下げました。

 並んでいた雑誌はどれも古びており、端は折れ曲がり、ページは湿気を吸って波打っていました。中には紙同士がべったりと貼り付いているものまであったそうです。

 週刊誌の表紙に記された日付はどれも何年も前のもので、そこだけ時間が止まってしまったかのようでした。

 その横で女将はまるで火がついたように喋り続けました。「有名ロックバンドのXのメンバーもお忍びいらしたのよ」や「番組司会をしている有名お笑い芸人のAさんも昔からよく泊まりに来てくださるの」、「実力派俳優のHさんなんか先週もいらしたのよ」などと有名人の名前を次から次へと挙げては得意げに語り続けたそうです。

 叔父は適当に相槌を打って愛想よく応じていました。そして頃合いを見計らい、「それじゃあ、そろそろ町に出たいので……」とやんわり話を切り上げ、二人で山道を下って麓の町へ向かったそうです。


 麓にはいくつもの温泉宿があり、宿泊客でなくても別料金で入浴できました。それを知った二人は大喜びし、湯巡りを始めたそうです。

 湯ごとに違う匂いや肌触りを確かめ、口に含んでは成分を予想し、これはあれっぽい、あれが強いななどと子供のように語り合いながら、すっかり温泉三昧の時間を満喫したといいます。

 飲み屋で地元料理をつまみに晩酌をする頃には、すっかり日も落ちていました。


 そして夜。部屋へ戻ると、すでに布団がきちんと敷かれていました。座卓の上には湯気を立てるO茶が二つ。まるで二人の帰りを待っていたかのように静かに並べられていたそうです。

 ですが部屋の空気は相変わらず重苦しく、昼間よりさらに湿り気が増しているように感じられました。

 つい先ほどまでの陽気な気分が嘘のように消え失せ、二人とも急に現実へ引き戻されたように自然と口数が減っていったそうです。

 Mは壁に背を預け、持ってきた古い雑誌をめくりながら時折お茶をすすっていました。そわそわと落ち着きなく足を組み替え、そのたびに畳が軋みました。ページをめくる紙の擦れる音がやけに大きく響き、部屋の静けさを余計に際立たせていたそうです。

 叔Gも湯呑を片手に窓の外をぼんやり眺めていました。

 山の夜は深く、外は墨を流したような暗闇でした。遠くで折れた枝が落ちる音や風が木々を揺らすざわめきだけが、思い出したように聞こえてきたといいます。

 ふと視線を感じてMのほうを見ると目が合う。すると、どちらからともなく慌てて視線を逸らし、また沈黙が落ちる――そんなやり取りが何度も繰り返され、時間だけが湿った泥のようにゆっくりと流れていったそうです。


「……もう寝るか」


「ああ……」


 やがてMが大きなあくびをしたのをきっかけに叔父がそう提案しました。二人は電気を消し、それぞれの布団へ潜り込みました。

 部屋が暗くなると軋む音がやけに耳についたそうです。人が歩いているのか、それともただの家鳴りか風なのか。ギシ、ギシ……ギシッ、ギシッ、ギシッと……。

 ですが、ふうと息を吐いて目を閉じると、ようやく気分が落ち着いてきたといいます。


 しかしその夜、叔父は妙な夢を見たそうです。

 湯船の底に無数の手が沈んでいるのです。白くふやけた指が湯の中でゆらゆらと揺れながら泳ぐように移動している。

 その手がぬらりぬらりと水を掻き分け、こちらへ伸びてきた。そして足を撫で、太ももを撫で……。


「……っ」


 叔父はふと目を覚ましました。

 体は汗ばんでいるのに、妙に股のあたりがすうすうする。浴衣がめくれているのかと思った叔父は、手で直そうとしました。

 しかし……動かない。腕も肩も、指一本すら動かせなかったそうです。

 金縛りだ――そう思った直後、夢の中で、そしてあの湯船の中で感じた感触が股のあたりにはっきりと蘇りました。


「……ようか」


 耳元で囁く声が聞こえました。

 叔父は反射的に振り向こうとしました。ですが、やはり体はぴくりとも動きません。白目を剥かんばかりに目を見開き、必死に目玉を動かしましたが、見えたのは両手を投げ出して熟睡しているMの姿だけでした。

 けれど、確かに何かがいる。

 冷たく細い感触がゆっくりと股をなぞり、そのままその上のK玉を……。

 呼吸が自然と荒くなり、叔父は喉を鳴らして唾を飲み込みました。

 そのときでした。ぬっと視界の端に何かが現れたのです。


「お兄さん……Nいてあげようか?」


 O将のUでした。

 暗い闇の中、にたりと笑っていました。その顔はなぜだか昼間よりもさらに白く見えたそうです。

 そして、すっと顔が引っ込むと再びあの感触が貪るかのように下半身へ絡みついてきました。

 ぬたり、ぬたり――。両手でK玉を弄び、片手でK門からSAOへ。股を通って腹へ、胸へ、T首へ、喉へ、そして顔へと、白い手がまるで蛇のようにゆっくりとせり上がっていきました。


「お兄さん、セッXしたことある?」「おばさんね、Tがすごいんだから」「Aさんも病みつきなのよ」「この地方じゃ有名なんだから」「Oくすりがよく効いてるわね。S力剤も入れたのよ。うふふ」「ほら、すごいことになってる……」


 女将は手を叔GのPに添え、耳元で卑猥な言葉を囁き続けました。KをKの中でKろがし、PをFし、AをSでNめて、さらにOのOでSしていく。

 その感触は不快で気味が悪く――しかし……抗うこよは難しかった。

 背徳感と嫌悪感を伴う快楽の中で、叔父の意識は次第にぼやけていきました。

 湯の中へ沈んでいくように、ゆっくりと深く――。



 *  *  *



「おい……おい、起きろよ。もう朝だぞ」


「あ、ああ……」


 翌朝。Mに肩を揺すられ、叔父は目を覚ましました。

 頭を掻きながら身を起こし、わざとらしく大きなあくびをしました。でも、その脳裏には昨夜の感触が鮮明に焼きついていたそうです。

 あれはいったい……夢だったのか。それとも――。

 思い返した瞬間、背筋がぶるりと震え、思わず股をきゅっと閉じたそうです。

 叔父は何も言わず、素早く身支度を整えました。そして、ほとんど逃げるようにチェックアウトへ向かいました。


「ご満足いただけましたか?」


 女将にそう尋ねられた瞬間、再び昨夜の記憶が蘇りました。叔父は「いやあ、まあ……」と曖昧に笑って返そうとしました。

 でも、そのときでした。


「はい、最高でした!」


 Mがやけに晴れやかな声でそう答えたのです。

 叔父が思わず振り返ると、Mは満面の笑みを浮かべ、まるで体が弾むのを抑えているかのように肩を揺らしていました。その肌は妙につやつやとしていたそうです。

 旅館を出て山道を下りながら、叔父はぼそりと尋ねました。


「……朝風呂、入ったのか?」


 するとMは少しだけ間を置き、「まあ、そんなとこだ」と答えたそうです。

 その口元に、どこか意味ありげな笑みを浮かべて。



 それ以来、叔父はその地方を二度と訪れてはいません。

 けれど今でも時折思い出すそうです。

 湯船に浸かっているとき――特に白い入浴剤を入れて湯が濁ったときなどに。

 あの旅館のUのことを――。

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