7 通夜の朝
朝はいつも五時に起きる。
司が死んだ日の翌朝ーー二月四日の火曜日も、治七はいつも通りに目を覚ました。
静かで暗い寝室には、カチ、コチ、カチ、コチ、という時計の音だけが響いている。
治七は布団の中で横になったまま、枕元に置いた携帯電話を引き寄せた。
何かあればこれに連絡がある。
すぐに気付けるよう頭の側に置いて寝たが、深く眠っていて気付けなかったかもしれない……。
そう思ってすぐに着信履歴などを確認したが、寝ている間に連絡はなかったようだった。
治七は「ふぅ……」と溜息を吐き出す。
司がいない時に問題が起こるのは御免だ。
そう考えて、これからはもう本当にいないのだと思った。
今までなら、泊まりがけで出かけていても電話で判断を仰ぐことができた。
しかしこれから先は、全て治七一人で決めなければならないのだ。
胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになり、治七は布団の中で縮こまった。
これではいけない。
今にも司の叱責が飛んできそうで、治七はむくりと起き上がる。
Tシャツと作務衣のズボン姿で寝ていた治七は、枕元に畳んでおいた作務衣の上を取って袖を通した。
いつ呼び出されてもいいように、寝巻きは着ないことにしている。
携帯電話を持って立ち上がり、天井の灯りの紐をカチリと引っ張ると、治七の寝室がパッ、と照らされた。
寝室には布団以外に何もない。
日中のほとんどを書斎か蔵で過ごす治七にとって、寝室は寝るためと、着替えなどを仕舞っておくためだけの場所だった。
廊下へ出られる障子と書斎と繋がった襖のうち、治七は襖の方を開ける。
寝室からの明かりで照らされた書斎には中心に机があり、その周りを畳の上に直接積み上げた本や書類の山が取り囲んでいた。
本や書類の山の間を通り抜けて、治七は左手にある襖を開ける。食事をするための机とテレビのある居間を通り過ぎると、また襖を開けて廊下へと出た。
右手に玄関、正面に台所、左手にトイレと洗面所と風呂場がある。
治七は用を足してから顔を洗い、また廊下へと戻ってきた。
洗面所の向かいは司の部屋だ。
いつもなら音を立てないよう慎重を期すが、これからはもうその必要はない……。
そう思うと、いつもの静けさがやけに身に沁みた。
じわじわと湧き上がってきた感覚にとらわれないよう、治七は振り払うつもりでさっ、と体の向きを変える。
すると玄関の明かり取りの向こうがいつもよりずっと明るく、白く光って見えた。
雪だ。
玄関前の地面が白く覆われ、離れを囲む躑躅の生垣も、その先の黒松もこんもりと雪を被っている。
寝ている間に降ったらしい。
生垣の上の雪を見る限り、三、四センチほど積もっているようだった。
これは長靴がいるだろうと思い、外を覗いていた治七は下駄箱から取り出して三和土に置く。そして框に上がって寝室に戻ると、押し入れから綿入れ半纏を取り出した。
携帯電話と離れの鍵、そして蔵の鍵を持って離れを出る。
玄関の戸を開けた瞬間、冷えた空気が肌を刺すように襲ってきた。
まだふんわりとした雪の上を、寒さに震えながらサク……サク…と踏んで歩く。
空はまだ暗いのに、雪のおかげで辺りは充分に明るかった。
生垣を抜けると黒松の裏の駐車場が見える。
車のない駐車場には誰かの足跡があって、門から母屋の勝手口へと続いていた。
朝の五時だが、もう出勤している従業員もいる。
母屋の調理場には明かりが点いていて、換気扇がくるくると回っていた。
寮の部屋の窓に明かりはない。月島もまだ寝ているだろう。
治七は元々睡眠時間が短いが、月島はそうではないはずだ。本当に昼からの出勤で構わないのだが、「いつも通り七時に」と言っていたから、本当に七時に来るのだろう。
このままうちにいて欲しいという返事を、まだもらっていない。
今回のことを思い詰めていなければいいのだが……と思いながら、治七は雪を踏んで蔵へ向かった。
離れの北側には三つの蔵が並んでいる。
一番奥の蔵まで歩いていくと、蔵の側の梅の木に花が咲いていた。
昨日まではまだ蕾だった一輪。
寒さに耐えて凛とした姿を見せる紅梅を見て、そうだ今日は立春だと思った。
暦の上では今日から春。雪や寒さのおかげでとてもそうは思えないが、この梅の花だけが春の訪れを告げているように感じた。
少しの間梅の花を愛でてから、治七は首に掛けた紐を引っ張り出す。
紐の先には同じ鍵が二本ついていた。
一つは薬所司が、もう一つはその後継者が持つものだ。
今までは治七と司がそれぞれ一つずつ持っていたが、昨日司の分が治七のところにやってきた。
いずれ……治七の後継者となる者を決め、その者に一つを渡すことになる……。
後継者のことを考えると気が滅入りそうだった治七は、さっさと気持ちを切り替えて錠に鍵を差し込んだ。
蔵の外側の扉を開くと、中にも内扉がある。
外扉と内扉の間には人が立てるだけの幅があり、治七は内扉を開けるより先に外扉を閉めて閂をかけた。
すると二つの扉の間は真っ暗になるが、治七は問題なく内扉の取手に手をかける。
内扉には錠はない。しかし鍵は必要だった。
この中には薬所家の宝が眠っているのだ。
その宝を生きたまま見られるのは、薬所家当主である司と、その後継者だけと決められている。
そのためこの内扉には術がかけられ、司とその後継者しか開けられないようになっていた。
三つある蔵のうち、この蔵だけは外扉の鍵を盗んでも中に入ることができない。
この内扉を開くために必要なのは、薬所司とその後継者自身だった。
他の者が一緒に入ろうとしても、その者は中に入ることができない。
内扉にかけられた術に拒まれ、弾き飛ばされた者がいることは、代々の司が記してきた日誌に書かれていた。
治七は難なく内扉を押し開ける。
すると扉の向こうから紅い光が差し込み、治七はその光に包まれながら中に入った。




