6 霊前の誓い(月島視点)
葬儀会社の人を見送り、治一が安代を連れて帰るのを見送り、月島は治七と共に離れまで戻ってきた。
「私は一人で戻れますから、月島さんももう寮に戻って休んで下さい」と言う治七に、無理を言ってついてきたのだ。
ーーすぐに戻る。
そう言って一人で寺に戻り、司はそのまま帰らぬ人になってしまった。
薬所家の母屋と離れは目と鼻の先とは言え、もしものことがあってはならない。
離れの玄関までやってくると、治七は振り返って「ありがとうございました」と言った。
「こんなに遅くなってしまってすみません。明日は九時からの予定でしたが、もう三時です。明日はお昼からお願いします。お疲れ様でした」
治七はしっかりと頭を下げる。
執事の月島にも丁寧に接するのは、「上に立つ者として隙を見せるな」と言う司からの教えよりも、「相手を大事にしていれば、相手もあなたを大事にしてくれるわ。だからご縁があった方一人一人を大事にしなさい」と言う安代からの教えによるものだろうと思っている。
こんな時ですら月島のことを気遣ってくれることを嬉しく、また申し訳なく思いながら、月島は「いいえ」と言った。
「通夜のため超過勤務になるから九時出勤で良いと司様は仰って下さいましたが、私は元々七時に出勤する予定でした。明日は通夜がございますから、朝からすべきことがたくさんあるでしょう。いつも通り七時に出勤させて下さい」
月島がそう言って頭を下げると、治七は困ったような表情を浮かべ、「無理はしないで下さいね」と言った。
「月島さんさえ良ければ、このままうちにいてもらいたいと思っているんです。頼りにしているんですから、倒れられては困ります」
治七のその言葉に、月島ははっと顔を上げる。
司がこんなことになってしまったのは自分のせいだ。
それなのにまだ、自分にいて欲しいと言う。
月島は込み上げてきた思いをぐっと堪え、「はい……」と深く頭を下げた。
治七は「それじゃあ、おやすみなさい」と言ってもう一度頭を下げ、一人で玄関を開けて中に入っていく。
司がいなくなった今、治七は離れに一人きりだ。
本当なら自分が代わりに一緒にいたいところだったが、さすがにそこまでのことは言えない。
それに、治七が一人で離れで寝起きするのは初めてのことではないのだ。
司が泊まりで仕事に出ていたことは、これまでに何度もあった。
月島は自分に大丈夫だと言い聞かせて、「おやすみなさいませ」と治七を見送った。
離れの玄関の戸がカラカラカラ……と音を立てて閉まり、中で廊下の電気が点く。
玄関の戸のガラスから漏れてくる灯りに照らされて、月島はゆっくりと顔を上げた。
母屋からの灯りもあり、夜中であっても辺りは充分に見える。
寮のある母屋は離れの南側にあるが、月島は北側へと足を向けた。
北側には立派な蔵が三つ並んでいて、その裏には薬所家の墓がある。
白と黄色の菊が供えられたその墓の前で、月島は膝を着いて頭を下げた。
「申し訳ございません……!」
この墓には、自分を拾ってくれた十九代目も眠っている。
家族を亡くし、行き場をなくした自分を雇ってくれた十九代目。
その十九代目が鬼籍に入ってからは、司を継いだ恭治の元で働いた。
拾ってもらった恩に報いる気持ちで、ずっと支えていこうと思っていた。
それがまさか、こんなことになるとは……。
とても恩を返すどころではない。
謝っても謝り切れない。
それなのに、治七も安代も治一も、誰も月島が悪いと言わないのだ。
ーー月島さん、ありがとうございました……本当に、最後の最後までついていて下さって……主人もきっと、感謝していると思います……。
病院で頭を下げた月島に、安代は涙でぐっしょり濡れた目でそう言った。
治一も「通夜の後に親父とどこかで食べる予定だったから、夕食がまだでしょう……こんなものですみませんが……」と弁当を買ってきてくれた上、「本当に、父が世話になりました……ありがとうございます……」と頭を下げたのだ。
責められることがあっても、お礼を言われるようなことなど何もない。
決して責任を取ることにはならないが、せめて葬儀が終わったら辞表を出そうと考えていた月島に、治七は先手を打つように言った。
ーー月島さんさえ良ければ、このままうちにいてもらいたいと思っているんです。頼りにしているんですから、倒れられては困ります。
こんな自分がいていいのだろうか、辞退すべきなのではないかという思いと、こんな自分でもできることがあるなら、むしろそれをすべきなのではないかという思いが、月島の中で渦巻いた。
拾ってもらった恩と、今回の件の贖罪。
どちらも放り出したくはないし、放り出せるものではない。
それなら今度こそ恩に報いよう、きちんと償おうと思った。
このままここに残ることは、ただの自分の我儘かもしれない。
自分がここに残ることで、嫌な思いをする者もいるかもしれない。
しかしこれから司になり、きっと大変な思いをするだろう治七のために、自分を頼りにしていると言ってくれた治七のために、月島はここに残りたいと思ったのだ。
「今回のことは、お詫びの仕様もございません……! ですがもう少しだけ、もう少しだけ……! こちらでお世話になります……!」
今度こそ役目を果たすために。
治七が死ぬまでお供することはできないだろうが、せめて自分の頭と身体が使い物になるうちは、精一杯努めようと心に決めた。
十九代目が眠る墓にもう一度頭を下げ、月島は立ち上がって母屋へ向かう。勝手口から中に入ると、母屋の中はさすがにしん…と静まり返っていた。
すぐ側の調理場はいつもにぎやかだが、この時間は誰もいない。その奥の食堂も真っ暗で、人の気配はなかった。
角を曲がれば風呂場やトイレがあり、その先には生産部や製造部の部屋、診療所や薬屋の店舗がある。
診療所には当直の者がいるし、製造部の部屋でもよく誰かが薬の研究に夢中になって泊まり込んでいるから、廊下の灯りはいつも点いていた。
勝手口の目の前から上へと伸びる階段の下には下駄箱があり、月島は脱いだ革靴を入れてニ階へと上がる。
上がった先は住み込みの従業員のための寮の部屋になっているが、月島は角を曲がって寮から離れた。
もう一人、謝らなければならない人がいる。
医療部や営業部の事務所の前を通り過ぎ、月島は閉じられた座敷の襖をゆっくりと開ける。
枕元に置かれた小さな行灯の灯りが、暗い座敷の中で布団の膨らみを白く照らし出していた。
顔にかけられた白い布。それをそっと外して顔を見る。
落ち窪んでしまったその顔は、普段のぴんと張り詰めた表情を知っているだけにひどく痛々しかった。
常に戦場に身を置いているかのような人だったと思う。
家の中にも外にも敵が多かった。
今でこそ讃えられている家の改革も、最初は猛反対を受けたのだ。
司になってまず本家の屋敷の建て直しを決めた時は、誰にもいい顔をされなかった。
それでも強行して建て直したと思ったら、今度はツテを頼って外から人を雇い入れると言う。
それまで分家の者が奉公に来ることは珍しくなかったが、薬所家の血を引いていない者がいることはまずなかった。
月島はその唯一の例外だったのだ。
ーー既にうちでは月島を雇っている。異形の存在を知る者なら数を増やしても問題ないだろう。
司はそう言って人を増やし、事業を広げた。
大きく変わった家のあり方に不満を抱く者は多かったし、資産を増やして事業を広げる度に敵が増えていった。
少しくらい手を緩めてはと進言しても、司の強行な姿勢は変わらない。
それは後継者についても同じだった。
屋敷を建て直すために移り住んだ家から、次の司と決めた治七だけを連れて本家に戻った。
そしてまだ二歳だった治七に、生薬の種類とそれぞれの効能、製薬方法、古くからの顧客の情報、そして経営方法などを教えていったのだ。
まだおしめも取れていない子供には無理だろうと思ったが、司はできるまでやれ、という姿勢を崩さなかった。
厳しい指導の賜物なのか、元々才能があったのか、治七は新薬の開発で成果を上げ、今ではその分野で他の追随を許さない存在になっている。
きっと先見の明があったのだろう。
そして必要と判断したことを行っていただけ……。
それがなかなか周りに理解されず、本人もまた理解してもらおうとすることはなく……結果損な役回りを引き受けていたのではないだろうか……。
月島は沈み込むように眠る司の顔を見ながら思う。
もっと、できることがあったのではないだろうか……。
自分がもっと周りの理解を得られるよう努めていれば、司はもう少しくらい、気を休めることができたのではないだろうか……。
今更悔いてもどうにもならないことではあるが、月島はそう思わずにはいられなかった。
「お役に立てず、申し訳ありません……」
司に深く頭を下げ、月島はそのままの姿勢で続ける。
「お役に立てなかった分、若のためにはできるかぎりのことを致します……」
だからどうか、そちらでは少しでも休めていますように……。
月島が心の中で祈って顔を上げると、ちょうどぎし、ぎし、と誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえてきた。
開け放した襖から、鼠色の作務衣を着た総務部の者が顔を出す。
夜間の見回りだ。
月島が「お疲れ様です」と頭を下げると、あちらも「お疲れ様です」と頭を下げて歩いていった。
この屋敷では異形の存在から採れたものや毒にも薬にもなるものを扱う上、寮では従業員が寝起きしている。
安全のために夜間の見回りが必要だと命じたのは、他ならぬ司だ。
今夜は司のためにも番をしてくれるだろう。
月島は司の顔にそっと布をかけ直し、静かに部屋を後にした。




