5 母
廊下の先から、治一が葬儀会社の人と話をしている声が聞こえてくる。
他の兄姉達は母屋へは寄らずに、病院からそれぞれの自宅へ帰ったらしい。
月島も気を利かせて席を外していて、治七は座敷に司と二人きりだった。
顔を見たのだから、そろそろ動かなければ……。
治七がそう思った時、開け放した襖の方から「治七……」と呼ぶ声がした。
呼んだのは治七の母・安代だ。
治七が思わず顔を上げると、安代は赤い目をして座敷の入り口に佇んでいた。
治七に何か用があるというよりは、いると思わなかったのにいたから驚いて名前を呼んだ、という様子だった。
何と応えていいか分からず、治七は小さく頭を下げる。そしてそのまま司に向き直る振りをして、安代からさりげなく視線を逸らした。
この人とは、いつもどう接していいのか分からない……。
治七のそんな心情など知る由もない安代は、座敷に入ってくるとそっと治七の隣に腰を下ろした。
「ありがとう。忙しいのに、来てくれたのね……」
「…………いえ……」
お礼を言われるようなことではない。
しかしそんなことも口にできず、もちろん顔など見られるはずもなく、治七は司の顔や自分の手元、隣に座った安代の膝元などを見ていた。
小柄な安代はその小さな身体を金茶色の着物で包み、生成り色の帯を締めている。
着物は落ち着いた雰囲気の飛び柄で、百円玉くらいの大きさの輪が二つが重なり、それがあちこちに散らばっていた。
帯には赤い小さな実をつけた南天が枝ごと大きく描かれていて、その上から金と黒の帯締めがきっちりと締められている。
治七はその色の組み合わせを見て、節分に合わせたのだと気が付いた。
もしかしたら、輪が描かれた着物を着ているのも、豆を意識してのことかもしれない。
治七がそんなことを考えていると、安代は「大丈夫?」と訊いた。
「……はい?」
司が死んだこの状況で、「大丈夫?」とはどういうことか……。
質問の意図を図りかねて、治七はわずかに顔を向ける。
すると安代の顔はすぐ傍にあり、じっと治七のことを見つめていた。
「急にこんなことになって……びっくりしたでしょう……あなたは特に、これから大変だと思うけど……何かあったらいつでも言って頂戴ね……私はお仕事のことはあまり分からないけれど、できることがあるなら何でもするわ……だから、一人で抱え込まないで……無理をしないでね……お兄ちゃん達もきっと力になってくれると思うし、月島さんだってこのままうちにいて下さるんでしょう? 一人じゃないから、心配しないで……」
安代はそう言って安心させるように微笑み、「大丈夫よ」と自分の手を治七の手に重ねた。
治七がずっと俯いていたせいで、心配をかけてしまったらしい。
安代の方こそ夫を亡くしたばかりだと言うのに……。
治七は自分の不甲斐なさを申し訳なく思いながら、「ありがとうございます……」と頭を下げた。
「月島さんのことはご本人に確認してみなければ分かりませんが、できれば引き続きお願いしたいと思っています。兄さん達はもちろん、母さんにも他の従業員の皆さんにも、たくさんお世話になると思います。よろしくお願いします」
治七がそう言ってもう一度頭を下げると、安代は「ええ……!」と顔を綻ばせた。
その表情の変化にほっとする。
しかしその先の言葉が見つからず、治七はやはり口を噤んだ。
治七が安代と一緒に暮らしていたのは二歳の時まで。その当時の記憶はない。
それ以降は別々の家で暮らし、治七は次の司になるための修行を最優先にしてきた。
安代と親子として関わった時間はあまりない。
そのためなのか、人と関わること自体が苦手なせいなのか、いつも何を話したらいいのか分からないのだ。
治七はどうしたらいいのかと頭を悩ませた。
兄姉や伯父達とは仕事の話をすればいい。
法事の時ぐらいにしか顔合わせない親戚とは、「お変わりありませんか?」「おかげさまで」などと決まりきった挨拶をするだけだ。
しかし安代とはそうはいかない。
家の仕事に関わっていないから仕事の話はできないし、会う頻度は遠方に住む親戚よりは多い。
そうすると「お変わりありませんか?」「おかげさまで」などと言う挨拶だけでは済まず、もう少し深い話をすることになる。
最後に会ったのは正月で、その時は新年の挨拶をして、今年一年をどう過ごすか話をした。
ーー今年は典子さんや光子さん達と一緒に、みんなでお花見をしましょうって計画しているの。食べ物を持ち寄って、おしゃべりをして、少しでものんびりできるといいわね、って……。詳しいことが決まったら知らせるから、良かったら来て頂戴。……治七は何か決まった予定がある?
ーー開発中の新薬があるので、それを完成させたいと思っています。
ーーまあ! また新しい薬を!? 今度はどんなものかしら?
ーー腎臓病に効く薬です。
ーー凄いわ。完成するのが楽しみね。
あの時は、薬の話だからすらすら話せた。
しかし今はそういう状況ではない。
それに、こういう時にどういう話をすればいいのかも分からなかった。
司は安代とどんな話をしていただろう……。
確か正月は、どこかの店の話をしていた。
ーーあなた。〈傍〉さんというお店、覚えていらっしゃいます?
ーーああ、銀婚式で行った店か……。
ーー治臣がクリスマスに家族で行ったんですって。光子さんも朝子も夕子も気に入ったから、また行こうと思っている、って……。私達もまた行きませんか? お忙しいでしょうから、すぐにとは言いませんけど……。
ーーそうだな。考えておく……。
ーーふふ、期待しないで待っていますわ。
無愛想な司に、それでも安代は嬉しそうだった。
赤くなった安代の目元。
瞼を落としてもう目覚めることのない司の寝顔。
治七は膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、視線を彷徨わせながら言った。
「…………落ち着いたら、〈傍〉さんというお店に行きませんか?」
「ーーえ?」
治七がちらりと見ると、安代は驚いた顔をしていた。
「正月に、行きたいと話していたでしょう? 私では司の代わりにはなりませんが、もし良かったら……」
安代はまだ驚いている。
やはり慣れないことはするものではないと、治七は「いえ、忘れて下さい」と俯いた。
すると「ありがとう」と声がする。
治七が顔を上げると、安代は嬉しそうに微笑んでいた。
「楽しみに待っているわ」
一緒に店に行って、まともに話ができるかと考えると不安ではあるが……。
治七は誘ってみて良かったと思った。




