4 帰還
カラカラカラ……と玄関の戸が引き開けられる音が聞こえてきて、書斎にいた治七ははっ、と玄関の方を見た。
仕事や研究をする書斎の襖はいつも開け放していて、続き部屋の居間の締め切った襖が見えている。
その居間の襖の向こうーー廊下へ出てすぐ右のところに玄関があって、そちらから月島の「ただいま戻りました……」と言う声が聞こえてきた。
治七は出迎えようと腰を上げ、鴨居にかけた時計を見る。
するともう夜中の一時を回っていた。
本来なら二十二時には戻るはずだったのに……。
まさかこんなことになるとは思いもしなかったのだから、仕方がないことなのかもしれない……それでも治七は月島に申し訳ないと思っていた。
月島と司が予定通りに帰っていれば、治七は月島に「恵方巻きはちゃんと北北西やや右の方角を向いて食べました」と話をして、一緒に豆まきをしただろう。
そうして「おやすみなさい」と挨拶をして、月島は寮のある母屋へと戻って行ったはずだ。
通夜のためにいつもの退勤時間よりは遅い時間だが、それでも何事もなく、いつも通りに……。
それから治七は司に通夜の話を聞いて、代わりに終わらせた書類のことを報告して、これ以上急ぎの仕事がないようならば、好きな研究に打ち込んで……そんな日常が、これからはもう二度と来ないのだと、治七はじわじわと感じ取っていた。
溢れ出そうになるものを抑えながら、治七は書斎から出て居間を通り過ぎ、居間の襖をすうっと引き開ける。
するとすぐ右に、戻ってきた月島の後ろ姿が見えた。
カラカラカラ……と玄関の戸を閉めていた月島は、随分と疲れ果てた様子だ。
いつも上品な口髭をきちんと整え、銀縁の眼鏡には一点の曇りもない……その月島が、今は髪も口髭も乱れ、随分とくたびれて見える。
項垂れたその後ろ姿に、治七は「おかえりなさい」と言った。
月島がはっ、と振り返る。そして手に持っていた革鞄と紫の風呂敷包みを上がり框に置くと、月島は三和土に両手を付いて土下座した。
「若様! 申し訳ございませんっ!」
治七が一人で撒いた豆の中に顔を埋めるようにして、月島は堪りかねた声で言う。
「私がきちんとお付き添いしなかったばっかりに! 司様が……司様がこのようなことになってしまったのは、私の責任です! 誠に、誠に申し訳ございません!」
「……月島さん、顔を上げて下さい」
治七がそう言っても、月島は顔を上げなかった。
治七の祖父である十九代目の頃から司に仕えてくれている執事は、治七が思っていた以上に、今回のことに重く受け留めているらしい。
決して月島のせいではないのに……と思いながら、治七は下駄を突っかけて三和土に降りる。
そして豆を踏まないように注意しながら月島の隣にしゃがみ込むと、「通夜の会場にいた人が、見ていて対応して下さったのでしょう……?」と話言った。
「それでもこういう結果になってしまったということは、月島さんが側にいて下さっても、きっと同じだったと思います……月島のせいではありません。大変だったでしょう……ありがとうございました……」
治七が隣で頭を下げると、月島は「いいえ! いいえ!」と首を振る。
まだ顔を上げる様子のない月島に、治七は目先を変えて言った。
「治一兄さんがあちらを出る時に連絡をくれたので、そろそろだと思っていました……兄さん達は母屋ですか?」
「はい。母屋のお座敷に……」
「では、そちらに行きましょう」
治七がそう言って立ち上がると、月島はようやく顔を上げ、「では、すぐにお支度の準備を……」と立ち上がった。
治七は内心ほっとしながら、「お願いします」と言う。
本当は作務衣のまま行っても構わないのだが、こう言えば月島が顔を上げ、動き出してくれるだろうと思ったのだ。
治七の予想通り、月島はいつも通りてきぱきと動いてくれた。
用意してもらった鉛色の着物に着替えて母屋へ向かう。
一階に診療所と薬屋を構える母屋には、二階に二間の座敷があった。
その二間の片方に敷かれた布団の中で、司は静かに横たわっている。
朝から晩まで働いて、同じの屋根の下に暮らしていても滅多に見ることのなかった司の寝顔……それとは違う、と治七は感じた。
一見、戦い続けた者がようやくその戦いを終え、疲れて眠りについたようにも見える。
しかし治七には、大切な何かを失った、抜け殻のように見えた。
もしかしたら初めてではないかと思いながら、治七は恐る恐る司の頬に触れる。
指先でそっと触れた司の顔は、腐敗が進まないよう冷やされて、ひんやりとしていた。
本当に死んだのだ。
ここにはもう、あの威厳に溢れた司はいない。
治七は司の死を静かに受け留めて、震える指先をそっと離し、その指を手の内に握り込んだ。
「おかえなさい…………お疲れ様でした……」
司が外で仕事をして帰ってきた時には、必ずこの言葉をかけて出迎えた。
今日も本当なら離れの玄関でそう言って出迎えるはずだったのだ。
もう届かないことは分かっていたが、治七は司に頭を下げ、一人小さく呟いた。




