序章 薬所司
薬所司という名前は、薬所家の当主が代々名乗り継いできたものだ。
ーー薬所を司る者。
その名の通り、薬の家として続いてきた薬所家をまとめ上げ、人々を救う役目を担っている。
今の当主は二十代目。
治七はその七番目の子として生まれ、跡継ぎである次の司に選ばれていた。
「ーーでは行ってくる。後は任せたぞ」
「……はい」
治七が玄関まで見送りに出ると、司はいつもの厳しい表情で言った。
二十代目薬所司ーー本名薬所恭治。
歴代の当主達の中で、最も優れた司だと言われている。
どんな小さなことも見落とさない鋭い視線、人を寄せ付けない堂々とした立ち居振る舞い……治七にとっては切り立った氷山のような人だ。
細身で背が高く、目や耳が小さいところまで治七とはそっくりだったが、身に纏う空気はまるで違うものだった。
三十になっても次期司としての風格が身につかない治七に、七十八になる司は「はぁ…」と小さく溜息を吐き出す。
いつまで経っても頼りない跡継ぎで申し訳ないと思いながら、治七は小さくなって俯いた。
治七が幼い頃に次期司に選ばれたこともあって、司とは親子らしい関わりがほとんどなく、あくまでも当主とその後継者という関係に収まっている。
代わりに治七にとって父か祖父のような存在になっているのが、七十になる執事の月島だった。
「今日は節分ですからね。居間の机の上に豆まき用の豆と、食べる用の豆をご用意しております。食べる用の豆は、今年は数え年の三十一粒ございますよ。帰りは二十二時頃になると思いますので、夕食は調理場の水野さんに持ってきて頂けるようお願いしております。今日は恵方巻きです。北北西やや右の方角を向いて食べて下さいね。豆まきはお一人でなさって下さっても構いませんし、もしお待ち頂けるのであれば、帰ってから私と一緒に行いましょう」
月島はそう言ってにこにこと微笑む。
子や孫を相手にするような調子だが、生まれた時から世話になっているので仕方がない。
治七が「はい」と返事をすると、月島は銀縁の眼鏡の奥でますます嬉しそうに笑った。
そのやりとりを見ていた司は、やれやれというようにまた小さく溜息を吐き出す。そして二人に背を向けて、玄関の戸をがらがらがらっ、と引き開けた。
冬特有の冷たい澄んだ空気が吹き込んできて、治七は慌てて作務衣の合わせを掻き寄せる。その間に、司は身一つでさっさと表に出ていった。
通夜に出るため紋付き羽織に袴姿の司は、この離れを囲う躑躅の生垣の間を通り過ぎ、目の前にある黒松の大木を右へと回り込んでいく。
そちらには夕日に照らされた二階建ての母屋があり、黒松の裏には患者用の駐車場が広がっていた。
司が使う車は普段他のところにある従業員用の駐車場に止めてあるが、今はすぐに乗り込めるよう月島がこちらへと移している。
喪服を来た月島は紫の風呂敷包みと黒い革鞄を手に、「それでは行って参ります」と丁寧にお辞儀をした。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
治七がそう言うと、月島は嬉しそうに微笑んでまた小さくお辞儀をし、敷居を跨いでからそっと玄関の戸を閉めた。
戸がからからから…と閉まる直前に見えたのは、黒松の向こうに行った司の小さな後ろ姿だ。
振り返ることなく足早に進むその黒い背中が、治七が見た司の最後の姿になった。




