婚約破棄された悪役令嬢ですが、隣国の王子に溺愛されて政略結婚したら、全力で守られて復讐も終わりました
「リリアナ・ヴァレンティア! この場をもって、婚約を破棄する!」
――まさか、この社交の場で、公爵令嬢の私が一方的に捨てられるとは思わなかった。
フィアンセである王太子アレクシスの隣には、涙を浮かべた侯爵令嬢ミレイナ。どうやらアレクシスは彼女と浮気の末、愛に目覚めたらしい。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか、殿下?」
私の声は震えず、冷静だった。場にいた貴族たちは、ざわめきを飲み込むように静まり返る。
「お前は冷酷で傲慢、ミレイナを虐げていたと報告を受けている! 聖女のように優しいミレイナこそ、我が妻にふさわしい!」
あまりの茶番に、笑いそうになった。彼女こそ、陰で侍女を虐げ、私の名を騙って悪行を重ねた張本人だというのに。
けれど今は――否定する気もない。どうせ、私が何を言っても「悪役」として断罪される運命なのだから。
「……わかりました。では、婚約破棄を受け入れましょう。ヴァレンティア公爵家も、貴国との縁はこれにて――」
「――お待ちを」
厳かで涼やかな声が、玉座の間を貫いた。
その声の主は、隣国ルーフェンティアの王子、ノア・エヴェリウス。
氷のように美しい容貌を持ち、政務能力に長けた知将として名高い第二王子。その彼が、一歩前に出て私の前に跪く。
「リリアナ・ヴァレンティア公爵令嬢。私との婚姻を望みますか?」
「……え?」
場が凍りついた。
ノア殿下は静かに私の手を取り、その瞳に確かな情熱を宿す。
「あなたの誇りを踏みにじる者たちを、私は決して許さない。あなたを、私の全権で守りましょう」
私を守る? なぜ?
「わたくしは……ただ、もう誰にも侮辱されたくないだけです」
「ならばそれを、私が終わらせましょう」
彼の瞳は、本気だった。
こうして、私は隣国との“白い結婚”――政略結婚を受け入れた。けれどその結婚は、想像以上に甘く、温かく、そして――復讐の始まりだった。
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ルーフェンティア王国に嫁いだ私は、妃としての務めを果たしつつも、ノア殿下の徹底した庇護のもとで心を癒やされていった。
彼は私の過去をすべて受け入れた上で、溺れるほどに愛してくれた。
「リリアナ、冷たくされるのは構わない。ただ、お前の瞳が絶望に染まるのだけは見たくない」
「……優しすぎるのも罪です、ノア様」
私は初めて、人の腕の中で泣いた。涙を見せるのは敗北だと思っていたけれど、彼の前では違った。
そしてある日、ノア殿下は私のかつての婚約者アレクシスに、こう宣戦布告を突きつけた。
「貴国王太子の行いにより、我が妃の名誉が損なわれた。償いを求める」
外交文書ではあるが、その文面は“戦争も辞さない”という強硬なものだった。
慌てた王国側は釈明に走ったが、既にノア殿下の手配した証拠は完璧だった。ミレイナ嬢の悪事も、私に濡れ衣を着せた陰謀もすべて暴かれた。
ヴァレンティア公爵家には正式な謝罪が入り、アレクシスは王太子の座を剥奪、ミレイナは国外追放となった。
「本当に……やってしまわれたのですね」
「当然だ。お前を泣かせた代償だ」
彼は微笑みながらも、敵には容赦しない。優しさと冷徹さを併せ持つその姿に、私は心底、惚れていた。
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「……妃殿下、ご懐妊です」
医師の言葉に、私は思わず口を覆った。
ノア殿下の子を授かった――その事実は、これまでの痛みと涙を包み込むような喜びだった。
「リリアナ、ありがとう。お前が、私を選んでくれたことに、心から感謝している」
出産の夜。ノア殿下は私の手を取り、何度もその額にキスを落とした。
生まれてきたのは、澄んだ青い瞳の男の子。
「……アルセリオ。お前の名は、未来を照らす光の意を込めて」
ノア殿下が名付けたその名は、私たちの新しい始まりだった。
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過去は変えられない。けれど、未来は私たちの手で紡げる。
浮気され、婚約を破棄され、“悪役”として罵られたあの日。
それでも私は、今、こうして愛されている。全力で守られ、支えられ、そして家族を得た。
「私を救ってくださって、ありがとうございました。ノア様」
「……違う。救われたのは、私の方だ。お前がいたから、私は王になれたのだから」
私の隣には、いつも彼がいる。
それが、何よりの幸せだった。
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「ママぁっ!」
まだ幼い我が子――アルセリオが、私のスカートにしがみついてくる。
彼は父親譲りの透き通るような青い瞳をしていて、わたくしの心をひと目で溶かしてしまう。
「よしよし、アルセリオ。……今日は一緒に、お庭で遊びましょうか」
「ほんと!? やったーっ!」
無邪気に笑うその笑顔が、わたくしの過去の痛みを、すべて癒してくれる。
あの日、婚約破棄され“悪役令嬢”と罵られた私が、こうして王妃となり、母となったことは、奇跡のような出来事だった。
そして――。
「王妃。そちらの用件の後、午後からは外政評議です」
「わかりました。すぐに向かいます。……アルセリオ、あとでまた、パパと遊んでくれる?」
「うんっ! パパだーいすき!」
元婚約者に裏切られたとき、「もう誰も信じない」と誓ったのに。
今の私は、こんなにも愛されている。
夫ノアは、家庭では溺愛夫。
政務では冷徹無比な知将王。
そしてアルセリオの前では、ただの甘々な父親。
そんな彼と過ごすこの王宮での日々は、どれほど忙しくとも、幸せで満ちていた。
けれど――。
その“過去”は、ある日突然、扉を叩く。
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「……なんのつもりかしら」
ノアの執務室に届いたのは、かつてわたくしを追放した王太子――だった男、アレクシスからの使者だった。
「彼は今、辺境の村で静かに暮らしていると聞いていましたが……」
「だが、我らが王妃に赦しを乞うために謁見を求めるとはな。愚かだな」
ノアは書状を一瞥し、窓際に投げるように置いた。
「リリアナ。私の一存で、この書簡は握り潰せる。……お前が会いたくないというなら」
「――いいえ。会います」
「……本当に?」
私は頷いた。
「過去に蹴りをつけるなら、今しかないと思うのです」
夫と子と幸せな今を生きているからこそ、もう何も怖くはなかった。
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王宮の応接室に現れたアレクシスは、見る影もなく痩せ細っていた。
「……リリアナ。いや、今はルーフェンティア王妃殿下、か」
「お言葉を慎んでください。あなたに許された馴れ馴れしさは、もう存在しません」
「……それも、そうだな」
彼は深々と頭を垂れた。
「私は、君を間違っていた。ミレイナに唆され、君を悪人だと思い込んだ。すべてを失って気づいたよ。君が本当に、どれほど誇り高く、慈愛に満ちていたのかを」
その言葉は、今さら、あまりにも遅すぎた。
けれど――かつての“私”なら、その姿を見て、溜飲を下げたかもしれない。
「……私は、あなたを赦すつもりはありません。ですが、私がこれ以上あなたを憎み続けることも、無意味だと知りました」
「……ありがとう」
「この言葉は、あなたのためではありません。私自身が前に進むための言葉です」
かつての“悪役令嬢”は、涙も血も流した。
でも今は――もう、そうではない。
「お引き取りください。これが、最初で最後の慈悲です」
アレクシスは、何も言わずに頭を下げ、そのまま部屋を去った。
ノアは何も言わず、わたくしの背に手を添えてくれた。
「よくやった。偉かったな、リリアナ」
「……ありがとう、ノア様」
その夜、私はアルセリオの寝顔を見つめながら、そっと瞳を閉じた。
「あなたのおかげです、ノア様。私がここまで来られたのは――」
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数年後。
「アルセリオ様は、本日から正式に学習院にご入学です」
「やだ、ママと離れたくないー!」
「ふふ、困りましたね。……ノア様、どうしましょう?」
「では、父も毎日視察と称して校内を巡回しよう」
「おかしいですよ、それは!」
王族としての矜持は教える。
けれど、愛情もたっぷり注いでやりたい。
そう思えるのは、もう傷つくことが怖くないから。
アルセリオは、ノアによく似た冷静な子に育っている。
「パパみたいな王さまになる! ママは、お姫さま!」
「……母は、もう王妃ですよ?」
「えー! じゃあ、ママと結婚する!」
「……ノア様。将来のライバルができたようですね」
「ならば今のうちに、母は俺のものだと刷り込んでおくか」
ノアが抱き寄せ、わたくしの額にキスを落とす。
「……何度目でしょう、このやりとり」
「お前がいれば、いくらでも繰り返したい」
彼の手が、あの日と変わらず、私の心を包む。
「リリアナ。私は、これからもずっと、お前と共に歩む」
「はい。わたくしも――永遠に、あなたの隣に」
愛され、守られ、そして今、私は守る者になった。
悪役令嬢だったあの頃の自分に、もしも声をかけられるなら――こう言う。
「あなたの未来は、想像よりずっと、優しい」