90話 届ける手 ―提案書、ミカのもとへ
朝日が城の高窓から差し込む頃、政務室には既に空気が張り詰めていた。
ミカは黙々と机に向かい、机上の書簡に視線を落としていた。
そこに、ひとつの封筒が届く。
「……直筆です。差出人は、ラッカさん」
セレンがそっと封を置く。
厚みのある茶封筒には、黒インクでただ一言。
《市井ノ聲》
ミカはそれを手に取り、封を破く。中から現れたのは、ラッカの力強い筆跡で綴られた、手書きの提案書だった。
「……市井の声。いい名前だね」
彼女はそのまま読み進める。筆致は粗く、文法も一部乱れていたが、紙面からは、街の匂いと声の重みがにじみ出ていた。
『俺が会ったのは、声を出すことすら諦めかけた子どもだった。
彼の声は、名簿に載っていない。データにも、記録にもいない。
でも、確かに“生きていた”。その命に、行政は応えるべきだ。』
セレンが小さく目を見開いた。
「……これが、あの夜の“非公式記録”……」
「そうだね」ミカが呟いた。「“記録では測れない声”だよ、セレン」
セレンは静かに口を開いた。
「文書化されていない情報は、制度の外にある。……でも、それでも……」
「“体温”がある」
ミカが言葉を重ねた。
「数字やグラフにはない、体温。データに現れない“重み”が、ここにはある」
沈黙ののち、彼女は提案書を閉じ、深く息を吐いた。
「この提案、制度設計部に回しましょう。検討だけでなく、実行前提で」
セレンがわずかに眉を動かす。
「……ええ、本気で?」
「ええ、本気で。――政策の出発点は、“誰かの声”であっていい」
セレンは黙ってうなずいた。自分の中に芽生えた“記録の意味の揺らぎ”が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
ミカは続ける。
「……彼には、制度と現場をつなぐ“回線”になってもらいたい。あの荒っぽい言葉も、嘘がない。なら、あれは力になる」
セレンは問い返した。
「つまり、“現場フィードバック担当”…でしょうか?」
「ええ、正式な辞令は後日に。でも――」
ミカは微笑んだ。
「この国に必要な役職だと思う。“名もなき声”の拾い手。……そして、届け手」
ふと視線を封筒に戻すと、最後のページの余白にラッカの書き置きがあった。
『うるせぇ上司には叱られてもいい。でも、届かなかった声は、もう二度と見過ごさねぇ』
セレンがふっと笑った。
「……本当に、ラッカさんらしい」
ミカもまた笑みを浮かべる。
「いい声を、拾ってきたわね、ラッカ」
執務室には、静かな温かさが満ちていた。
それは、確かに“市井の聲”が国を動かす、そのはじまりの音だった。