89話 夜の路地と、名もなき声
夜半過ぎ。
雨が細く降る路地に、ラッカの足音が静かに響く。彼は調査帰りの帰路、ふと懐かしい匂いに足を止めた。焦げた醤と、湿った石畳の混じる香り。旧市街の裏通り――そこに、小さな屋台がぽつりと灯っていた。
「お、兄さん、傘、いるかい?」
小さな店主が笑う。軒下で湯気をあげる鍋、木の板に座る母子。子どもは痩せていたが、目だけは不思議と大きく、よく光っていた。
「いい匂いだな」
ラッカは屋台の端に腰を下ろした。母親が会釈し、少年がじっとラッカを見つめていた。
「名前は?」
「……カイ。五つ」
少年がぽつりと呟く。
「今日、配給所にも行ったの。けど、うち、登録なくて……“次の機会まで”って言われた」
母が言いかけた声は、疲労と遠慮に満ちていた。
「役所の人が、名簿にないって……私、夫がいなくて、移住登録も仮のままで。手続きに時間がかかってるうちに、住所が変わってしまって」
「じゃあ、手続きすりゃ――」
ラッカが言いかけた時、少年がラッカを見て口を開いた。
「おじさん、おれの声も……届くの?」
言葉に、空気が止まった。
「……え?」
「役所の人たち、紙しか見ない。お母さんが何言っても、首をかしげるだけ。おれ、泣いても誰も見ない。……届かない声って、あるの?」
ラッカは、答えられなかった。
代わりに、濡れた髪を手でくしゃりと撫でた。
「……ああ。あるな。届かねぇ声ってのは、ある。だけど――」
ラッカはふと、自分のポケットを探った。そこには今日も、メモ帳とペンがあった。
「お前の声は、俺が聞いた。聞いたからには、届かせる」
少年の目が、じっとラッカを見つめていた。
「うそじゃない?」
「うそじゃねぇ。“名もねぇ声”ほど、俺には重い」
夜が更けた頃、ラッカの部屋の灯りが消えなかった。
外はまだ雨。だが彼の筆は、止まらなかった。
《提案書案》――仮タイトル:《臨時救済対象に関する迅速登録制度の提案》
「……仮住民、移民家族、災害による住所喪失者。全部まとめて、既存の“登録制度”の網目に引っかかるようにする。仮ナンバー制、一次登録の簡略化、……それから……」
彼の文字は粗く、時に殴り書きに近かった。だが、言葉には熱があった。
「行政の都合じゃねぇ。“声の主”が中心なんだよ、こういうのは」
ふと手が止まり、彼は一行だけ、筆で強く書いた。
『紙にならぬ声にも、行政は耳を傾ける義務がある。』
「義務だよ……“おじさん、おれの声も届くの?”って――あの一言だけで、十分すぎる理由だ」
朝、提案書の表紙には、こう添えられていた。
提出者:ラッカ
備考:名もなき一声による、非公式現地調査を基に