88話 紙にならぬ声 ―セレンとの衝突
魔王城、作戦室の一角。
セレンは静かに報告書の束を机の上に並べ、綴じられていない手書きのメモ群に視線を落とした。そこには、見慣れぬ丸文字と絵図、幼い字で書かれた「うちのおばあちゃんがころんだ」など、規則の形から逸脱した紙片があった。
「……これは何ですか?」
硬質な声が部屋に響いた。
ラッカは壁にもたれて腕を組み、面倒そうに鼻を鳴らした。
「見て分かんだろ。現場で拾った“声”だよ。配給所の壁んとこに貼られてたメモ、ガキどもが落っことした絵日記、飯場の爺さんが書いた投書。そういうのだ」
「ですが……これは“報告書”ではありません。出典も不明、筆跡も曖昧。裏取りのない“噂”を政策資料に使うことは、誤解と混乱を招きます」
セレンは眉ひとつ動かさずに続けた。
「文書化されていない情報に、政策的価値はありますか?」
ラッカの目が鋭く細められた。
「おい、セレン。お前、それ、本気で言ってんのか?」
「……私は記録官です。あらゆる情報は整理され、検証可能であるべきです。個人の“印象”を行政判断に使えば、差別や偏見の温床になります」
「……だったら聞くがな」
ラッカは前に一歩踏み出し、机に手をついた。
「この手書きの“メモ”に書かれた《おばあちゃんが、階段の手すりが折れてこけた》って話。これが『誰かが命を落とすかもしれない危険』だって、紙がなくちゃ分かんねぇのか?」
「……それは、後で実地調査すればよいのでは?」
「後でじゃ、遅ぇんだよ!」
声が荒れた。
「こういう声は、よぉ――“紙にならねぇ声”は、痛みが生まれてすぐ、泣いて、消えていく。それを拾うのが、俺の仕事だ」
セレンは、わずかに表情を曇らせた。
「……拾って、それをどう記録するのですか? 曖昧な言葉で? 感情で?“泣いた”とか“苦しい”とか。そんな曖昧な指標で、私たちは法案を作るのですか?」
「違ぇよ」
ラッカの声は低くなった。だが怒りは消えていなかった。
「“紙にならねぇ声”ってのはな。記録官が取りこぼす“真実”だ。書けねぇ奴がいる。言葉にできねぇ痛みもある。だがな、それが――」
机を強く叩いた。
「――いちばん重てぇんだよ!」
沈黙が落ちた。
セレンはその言葉に、初めて“揺れ”を感じた。記録とは、確かに“形”に残す行為だ。だが、形にする過程で“消えてしまう何か”があるとすれば――?
「……では、あなたはどう記録するつもりなのですか? その“紙にならない声”を」
ラッカは、黙って懐から小さな黒革の手帳を取り出した。
「ここに全部書いてある。“字”じゃねぇ。“俺が見た景色”がな」
手帳には、具体的な数値や文法的な文章はなかった。
“今日は配給所の列にいた老婆が倒れた。若い兵士が背負って運んだ。あれは、“支援”だったと思う”
“笑ったガキは、飯を食っていた”
“飯が匂わない日は、誰も喋らなかった”
セレンは手帳を読み、ゆっくりと目を閉じた。
「記録は……感情の一部を切り捨てるものだと思っていました。けれど、あなたの手帳は……感情そのものを記録しようとしている」
「そういうことだ」
「……けれど、それは政策書には使えません」
「当たり前だ。けどな、政策書を作る“人間”が、これを読んだら、もしかしたら何かが変わるかもしれねぇ」
セレンは黙って手帳を返した。
「私は、まだ理解できません。けれど……それでも、あなたが記録しようとするものに“意味がない”とは言えなくなった」
「それで十分だ。お前の中に、それが芽生えたんならな」
ラッカは笑った。
セレンは初めて、“記録”とは何かという問いに、答えが一つではないことを知った気がした。