87話 生活のにおい ―子どもと飯と、老いの影―
「――おい、そこのガキ共!」
朝の陽がまだ斜めに街を照らす時間、ラッカの怒鳴り声が市場通りに響いた。
「そいつは腐ってんだろうが、手ェ出すな!」
子どもたちは慌てて手に持っていた果物を隠し、路地裏へと逃げようとした。しかし、ラッカは早かった。ひょいと走り寄って、一番小さな子の襟をがしっと掴む。
「な、なんだよぉ! 離せよ! ゆ、夕べから何も食ってねぇんだよ!」
「腐った果物なんか食って腹壊したら、どうすんだ。……家に親は?」
「母ちゃんは病気で寝てる。親父は……もう、帰ってこねぇ」
ラッカはしばらく無言で少年を見下ろし、ふうっと息をついた。
「ったく……しゃーねぇ。ちょっと来い」
近くの屋台に子どもたちを引き連れて行き、自腹で焼き芋をいくつか買い与える。
「……おっちゃん、すげぇ金持ちか?」
「違ぇよ。ただの公務員だ。けどな、空腹の子どもが腐ったモン漁る街を、“復興しました”とか書かれても、笑えねぇんだよ」
そう言いながら、ラッカは子どもたちの小さな手が、芋の温かさにふるえるのを見ていた。
「な、なあ、おっちゃん……これ、お礼に、教えてやる」
一番年上の少年がひそひそと声を潜めて言った。
「あそこの広場の裏に、食いもん集めてくる婆ちゃんがいる。誰にも言っちゃダメって言われてたけど……きっと、あんたなら怒らねぇと思う」
案内された場所は、市街地から少し外れた共同住宅の一角。廃材で囲われた小さな空間で、一人の老婆が鍋をかき混ぜていた。
「……あんたは?」
「ラッカ。魔王城から派遣されてる視察官だ」
老婆は眉をひそめる。
「役人か。なら帰んな。ここは見せもんじゃないよ」
「見に来たんじゃねぇ。聞きに来た。あんたの“飯”には、魔法みてぇな力があるって噂だ」
「馬鹿なことを……ただの、野菜の切れ端だよ」
「けど、その“切れ端”で飢えてる子どもや、歯のねぇ爺さんが腹いっぱいになってる。なぜ誰も報告しねぇ? あんたがここでやってること、資料には一文字も載ってねぇぞ」
老婆は手を止め、静かに鍋の湯気を見つめた。
「……記録に残るようなことじゃないんだよ。誰も見てないところで、少しだけ“足りない人”の分を補ってるだけ。あたしのやってることなんて、帳簿には載らない」
「けど、匂いは……すげぇ、残る」
ラッカは鍋から立ち上る湯気の匂いを深く吸い込んだ。
「これが、生活のにおいだな。書類じゃ伝わらねぇ、温度と湿度と、気持ちのこもった“飯の匂い”だ」
老婆は目を細め、少しだけ微笑んだ。
「……あんた、変わった役人だね。いつか魔王様に会ったら、伝えておくれ。“腹が満ちるだけじゃ、人の心は救えない”ってね」
「魔王様なら、きっと分かるさ。あんたの言葉も、匂いも、ちゃんと伝える」
その夜、ラッカは記録帳を開きながら小さく呟いた。
「生活支援政策……配給ルートはある、報告も届いてる。でも、そこに“子どもが笑ったか”って項目はねぇ」
書類の片隅に、ラッカは赤ペンで一文だけ走り書きした。
「飯の匂いがない政策は、腹も心も満たさねぇ」
彼の目には、数字では拾えない“暮らし”へのまなざしが、確かに灯っていた。