83話 喪失に触れる指先
交渉四日目の午後、魔王城の中庭にて。
エルフ側との交流の一環として、物資の展示会が開かれた。魔王軍各部門の技術や物産が整然と並び、対するエルフたちも森の民らしい精緻な工芸品や、治癒の薬草などを披露していた。
ユーリは案内役として、セリィアに同行していた。
ふと目に留まったのは、エルフ側の一角に置かれた、古びた銀の器。
それはどこか、奇妙な寂しさを湛えた光を放っていた。
「……この器、どこかで……」
思わず呟くと、セリィアが静かに答えた。
「それは“ハーヴェニアの祈器”。もう二百年は前のもの。……かつて、私たちが失った森にあった聖域の、遺品よ」
「……失った?」
ユーリが問い返すと、彼女はわずかに目を伏せた。
「……人間の開拓団によって、森が焼かれたの。私たちの祈りも、祭りも、子どもたちの笑い声も……すべて、炎に呑まれた」
彼女の言葉は、淡々としていた。けれど、その声の底には、何重にも積もった“沈黙の怒り”があった。
「……だから、私たちは今も“信じられない”の。あなたたちの文明の速さも、言葉の軽さも、便利さという名の“破壊”も」
ユーリは、何も返せなかった。
目の前の器は、静かに佇んでいた。ただの銀の容れ物に見えるそれは、確かに、記憶の亡霊だった。
「セリィアさん……それを、どうして……今、ここに?」
彼女はしばらく黙り――そして、呟いた。
「……“手渡したい”と思ったから」
「……?」
「私たちは、失ったものを“抱えて”生きてきた。けれど、それでは前に進めないの。だから……誰かに、“預けて”みたかった」
ユーリは、胸がぎゅっと締めつけられるような思いだった。
彼女の声は、強く、そしてどこまでも寂しかった。
「僕に……それを、預けてくださるんですか?」
「違うわ、ユーリ。私は“試して”いるの」
セリィアは目を伏せ、静かに器を撫でた。
「私たちの痛みを、どこまで理解しようとするのか。……あなたが“何を失ってきたのか”を、私は知らない。だから、あなたがどこまで“重さ”を知れるか、試しているのよ」
その瞬間、ユーリの心に、一つの記憶が甦った。
かつて、彼もまた「言葉」で傷ついた家族を見た。互いの誤解の果てに、崩れてしまった関係を――。
「……僕も、何かを……失ったことがあります」
セリィアが、静かに彼を見た。
「家族でした。……言葉にできないまま、誤解のまま、離れていきました。でも、それでも……僕は、あなたたちの痛みを、少しでも理解したい。違う存在だからこそ、知りたいんです」
沈黙。
そして――
「……泣いているの?」
彼女が、驚いたように囁いた。
気づけば、ユーリの目に涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい……。でも、これが……あなたたちの記憶の重さなら、僕は……受け取りたい」
セリィアは、しばらくユーリを見つめ、やがて小さく微笑んだ。
「……その涙が、偽りでないのなら。あなたは、器を持つにふさわしい者かもしれない」
彼女は、器をそっとユーリに差し出した。
「受け取りなさい。“これは痛みの器”。でも、そこに新しい水を注ぐこともできると、私は信じてみたい」
ユーリは、両手でその器を受け取った。
重く――けれど、確かな温もりを感じる銀の器だった。
彼の心に芽生えた感情は、ただ一つ。
「……この橋を、渡そう。あなたたちと共に」
夕陽が、器の表面を照らし、朱に染めた。
ユーリの瞳にも、同じ色が宿っていた。




