82話 摩擦の音、心の沈黙
エルフ商隊との交流は、静かに、だが確実に“綻び”始めていた。
「……この配置図、どういう意味ですか?」
それは、交渉三日目の朝。セリィアの副官、鋭い目つきの青年・サリヴァンが、魔王軍側の提示した倉庫案を指差して言い放った。
ミカが冷静に答える。
「魔導資材と自然産品を分けて保管する案です。エルフの方々のご要望に従って、禁呪反応の発生しない材質の棚もご用意しました」
「それが“分けて扱う”理由になると? 我々の品が、魔導品より劣るとでも?」
部屋の空気が、ピリリと張りつめた。
ユーリはとっさに前に出て、サリヴァンの言葉をエルフ語でやわらかく翻訳しながら、仲介に入る。
「申し訳ありません、サリヴァン殿。意図としては“保護”と“安全”の観点からの措置であり、決して価値の上下を論じたものでは――」
だが、彼の言葉を遮るように、セリィアが口を開いた。
「――あなたは、すぐに“訳そう”とするのですね」
「……え?」
「違和感を感じた時、あなたはまず“意図”を補正して訳す。そうして、相手の怒りも、嘆きも、和らげようとする。……それは優しさかもしれない。でも、真実はどうなるのですか?」
ユーリは息を呑んだ。
サリヴァンが、冷たい視線を投げる。
「我々が感じた“差別の匂い”を、“配慮”に変換する……それが通訳という仕事か?」
沈黙が落ちる。だが、今度はミカが前に出た。
「サリヴァン。……あなたたちが差別と感じたなら、私たちは真摯に受け止めます。その上で、こちらにも意図があったことを伝えたかった。だから、ユーリがその橋を渡そうとした。……責めるなら、私たちにどうぞ」
「……ミカさん」
ミカは背後のユーリにそっと目線を送る。
「ねえユーリ、通訳って何?」
ユーリはしばし言葉を探し、静かに答えた。
「……通訳とは、“心の翻訳者”であるべきだと……思ってました。でも……今はわかりません。僕は“本当の気持ち”を、意図的に曖昧にしてしまった……」
「気づいたなら、それは進歩よ」
ラッカがぽん、と彼の肩を叩いた。
「誰だって最初は“傷を避けるため”にやるもんだ。だがな、摩擦を避けたままじゃ、ほんとの信頼なんざ築けねぇ。……ぶつかったっていい。怒られてもいい。大事なのは、黙らねぇことだ」
サリヴァンが険しいまなざしを向けながら呟く。
「……言葉は、剣よりも痛いことがある。だが、それでも黙られる方が、もっと苦しい」
セリィアは、その言葉に小さくうなずいた。
「ユーリ。あなたが今日、黙らなかったこと……私は、評価します」
ユーリの胸に、小さな灯がともる。
それは、痛みを伴った学びだったが――確かに彼の中で、“通訳”という仕事が一歩、深まった瞬間だった。
会議の帰り道、ミカがふと笑った。
「怒られて、落ち込んで、それでもまだ“やりたい”と思えるなら……あなたはもう、本物よ」
ユーリは小さく笑い、そして答えた。
「……思います。僕は……この橋を、諦めたくないって」
魔王城の空は、薄曇りのまま。
だがその雲の隙間から、一筋の光が射していた。