81話 異邦の言葉、通訳の重み
魔王城に、エルフ商隊が到着した。
その報せは、朝の会議が始まる少し前に、報告係のセレンの手帳に記された一行から始まった。
「エルフ、来訪。商談目的。人数少数。慎重な対応を推奨」
重々しい記述に、ざわつく職員たち。その中で、ただ一人――ユーリは、唇を引き結んだ。
「……来た、か」
彼にとって、それは“待ち望んだ初任務”であり、“過酷な挑戦”でもあった。
「ユーリ、準備は?」
そう声をかけたのは、上司であるミカだった。
ユーリは一つ深呼吸し、通訳用の記録帳を胸に抱えながら答える。
「はい、言語的な基礎はすべて頭に入れました。エルフ語の敬語表現、口語の差異、交渉時の婉曲表現も……たぶん、大丈夫だと思います」
「“たぶん”は外交じゃ通らないわよ」
ミカの声は柔らかくも厳しい。その横で、ラッカが苦笑を浮かべる。
「まあまあ、初陣だ。緊張するのも無理ねぇさ。だがな、ユーリ……通訳ってのは、ただの“翻訳機”じゃねぇ」
「はい、それは――ミカさんからも、何度も言われてます」
「でもわかってねぇ顔だな。……通訳ってのはな、“怒り”や“涙”を、相手の言葉でどう伝えるかって仕事だ。感情を運ぶんだよ、音じゃなくて、魂で」
ラッカの言葉に、ユーリはそっとうなずいた。
「わかってるつもりです。でも……やってみなければ、わからないこともある」
応接の間に案内されたエルフ商隊は、全員が淡い銀髪に、儀礼的な衣装を身にまとっていた。
その中心に立つ女性――セリィアと名乗った代表は、静かに魔王軍側に視線を投げる。まるで測るように。
ユーリは胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じながら、一歩前に出た。
「はじめまして、魔王城通訳室所属のユーリです。本日はお越しくださり、ありがとうございます。こちらの言葉に不備があれば、どうぞ遠慮なくご指摘ください」
完璧な発音、文法も丁寧だ。だが――沈黙が落ちた。
セリィアは、じっと彼を見つめて言った。
「……あなたの言葉は、正確。でも冷たい。まるで、凍った書物を読み上げているよう」
「……!」
返す言葉が見つからない。
彼女の言葉は、まるで心を読み取る魔法のように、ユーリの不安を貫いた。
「我らは言葉を交わしに来たのではない。“関係”を結びに来た。……貴方に、その橋を架ける資格はあるのですか?」
静寂。
ミカが口を開こうとした瞬間、ユーリが小さく、だがはっきりと言った。
「……橋は、最初から完成しているものではありません。少しずつ、石を置いていくものだと僕は思っています。……だから、最初の石を、今日置かせてください」
セリィアの瞳が、わずかに動いた。
そして――「ならば、まず“我らの歌”を訳しなさい」と言って、古の旋律を詠唱し始めた。
難解な韻と、詩的な構文。だがユーリは臆さず耳を澄ませ、ひとつひとつ言葉を汲み取っていく。
彼の口から紡がれた訳は、ぎこちなさもあったが、確かに“詩の意味”を持っていた。
《――風は二つの魂を運ぶ。ひとつは怒り、ひとつは祈り》
訳を聞いたセリィアは、初めてほんのわずかに目元を緩めた。
「……悪くはない」
ユーリは深く、息を吐いた。
ミカが囁くように言う。
「言葉は刃にも、橋にもなるのよ。今日は……橋になりそうね」
ユーリの手の中の記録帳には、震える文字でこう書かれていた。
《エルフの言葉は、音楽に似ている。訳すために必要なのは、知識と、勇気と――沈黙を恐れないことだ》
そして、彼の心の中に、小さな火が灯った。
“僕は、通訳になりたい――じゃない。僕は、“この世界の橋”になりたい”