80話 セレンの笑顔 ― 小さな光、未来の兆し
魔王城の中庭には、初夏の風が吹いていた。
陽光はやさしく、空には薄い雲がゆっくりと流れている。
セレンはベンチに腰かけ、手帳を広げていた。
それはいつも持ち歩く「記録専用手帳」とは異なり、革表紙の私的なメモ帳だ。
「……今日は、窓口対応四件。市民からの直接の“感謝”が……二件……。
“嬉しかった”という感情を、……どう表現すべきか……」
彼女の呟きに、すっと影が差した。
「やあ、セレン。珍しく一人で物思いにふけってるな」
ラッカだった。片手には、フルーツジュースの入ったカップをふたつ持っている。
「……お疲れさまです、ラッカさん」
「おう。そんでこっちはご褒美だ。ほらよ」
「……? なぜ、私に?」
「お前さ、提言書の件、ミカが本部で報告したらしいぜ。アーク様が“よくやった”って」
「…………」
セレンの指がわずかに止まり、視線がゆっくりとラッカに向けられる。
「“よくやった”……それは、褒め言葉……ですよね?」
「そうに決まってんだろ? ほれ、祝杯代わりだ」
「……ありがとうございます」
受け取ったカップに口をつける。果汁のやさしい甘さが舌に広がった。
ラッカは隣に腰かけ、ちらりとセレンの横顔を見た。
「なあ、セレン。お前……ちょっと変わったよな」
「……変わった?」
「前はもっと……なんつーか、鉄板みたいに硬かったけど。
今は少しだけ、人間味ってやつが出てきた気がする。機械じゃなくなった、って感じ」
「……それは……“悪いこと”ではありませんか?」
「バカ言えよ」
ラッカは苦笑して、少しだけ声を落とす。
「俺はな、誰より“人間らしい魔族”が好きなんだ。
血が通ってて、怒ったり、泣いたり、笑ったりする奴が。……なにより、笑える奴がな」
セレンはその言葉に、目を伏せた。
「……“笑う”……私は、まだ、うまくできません。表情筋の調整も……」
「違ぇんだよ。筋肉の問題じゃねぇんだ」
「?」
「笑うってのは、な……“誰かと心を通わせたい”って気持ちから自然に出てくるもんだ。
そんでな、無理にでも笑ってみようとする奴ってのは、“誰かと繋がりたい”って、思ってる証拠だ」
「……“誰かと、繋がりたい”……」
セレンは静かに息を吐き、ベンチの縁に目を落とした。
そしてほんのわずかに、口元を緩めた。
ぎこちない。たしかにまだ“作られた”笑顔だ。
けれど、それは明らかに「誰かに向けた」笑みだった。
「……私、今……笑っていますか?」
ラッカは一瞬、息を止めたように黙っていたが、次の瞬間、ふっと目を細めた。
「……ああ、見えたぞ。セレンの“笑顔”。まだへたくそだけど、ちゃんと、温かかった」
「……よかった」
セレンの目元が、少しだけ緩む。
その顔を見たラッカは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ったく、そういうのは、もっと自然にやれよな……不意打ちは心臓に悪ぃ」
「記録しておきます。“ラッカさん、心拍数上昇”」
「やめろっての!」
ふたりのやり取りに、遠くからミカが気づいて歩み寄ってきた。
「……ふふ、セレン……今の、とてもいい笑顔だったわよ」
「ミカさん……」
「“記録することは、心を知ること”……。その言葉は、あなた自身を導く道でもあったのね」
セレンは頷いた。
「……はい。“心”を記録しようとしたとき、私は初めて“自分の心”と向き合いました。
……そして……私にも、こうして……温かいものが、生まれていたと、気づきました」
ミカは穏やかに目を細め、ラッカと目を合わせた。
「魔王秘書たちも、少しずつ育ってきたわね。これからが楽しみよ」
「ったく、教師みたいなこと言いやがって」
「じゃああなたは、体育教師ってところかしら?」
「セレン! それ記録すんなよ!?」
「……了解、記録しません。“体育教師疑惑”、非公式扱いに」
セレンの声に、ミカとラッカの笑い声が重なる。
――笑顔は、伝染する。
セレンの笑みは小さくても、それは確かにこの場所の“空気”を変えた。
やがて陽は傾き、風が少し涼しくなった。
セレンは手帳に、今日の記録を書き込む。
「……“本日、笑顔を得る”……。備考:未熟だが、心地よかった」
その文字の端に、ほんの小さな――けれど確かに温かい、笑みが添えられていた。