79話 セレンの初提言書 ― 未来への記録
執務室の夕刻は、いつもと違う静けさがあった。窓の外では茜色が城壁を照らし、部屋の中は少しだけ柔らかな影を落としている。
机に向かうセレンの手が止まることはなかった。
羽ペンがすべるように走り、淡々と、しかしどこか熱を含んだ文字が紙面に刻まれていく。
――これは「記録」ではない。
「……これは、“提案”……“意思”……」
セレンは呟くように言葉をこぼした。
「問題点:市民窓口における記録不能案件多数。記録者および相談員の配置不足……
……提案:新たな職務区分“感情聞き取り官”の設置、及び記録支援補佐官の兼任配置……」
ペン先が紙の端で止まり、セレンは一息ついた。
「……私は……これでいいと思っています。けれど……」
彼女はそっと立ち上がり、提言書を持って隣の部屋へと向かう。
そこでは、ミカとラッカが談笑していた。
「やあ、セレン嬢。書類の山からようやく這い出してきたのかい?」
ラッカが茶化すように笑ったが、セレンは真顔で提言書を差し出す。
「……私の、初めての提言書です。……確認、お願いします」
「ほう……!」
ミカは驚きつつも嬉しそうに手を伸ばし、丁寧に紙を受け取る。
ラッカは少し目を見開いてから、眉を上げた。
「おお、こりゃまた……ちゃんと“自分の言葉”で書いてるじゃねぇか」
ミカは読み進めながら、小さく呟く。
「……“声にならない声を、言葉に起こすべきではないか”。……これは……セレン、あなた……」
「……はい。私には、まだ感情をすくい上げることはできません。ですが、“記録者”として、“あった”という事実だけは、……未来に残せると思ったのです」
ラッカは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「……正直、お前がここまで書けるようになるとは思わなかったな。言葉ってやつは、重てぇだろ?」
「……はい。思っていた以上に」
ミカは読み終え、顔を上げた。そして、ゆっくりと、まっすぐに言った。
「……とても、いい文章よ。これなら、会議に出しても恥ずかしくない。
むしろ、あなたにしか書けない視点と配慮がある。数字じゃない、温度があるわ」
セレンの目がわずかに揺れた。
「……“温度”……」
ラッカはぽん、とセレンの肩を叩いた。
「書類で“温度”が出せるなら、大したもんさ。あとはその言葉が、誰かに届くように祈るだけだな」
「……届くでしょうか、私の言葉が……」
ミカは微笑み、言った。
「届くわ。だってあなたは“心を記録”しようとしたんだもの。それが一番、大事なことだから」
セレンはふと、自分の胸の中に生まれている小さな温もりに気づいた。
それは、記録に徹するだけでは決して得られなかったもの――“自分の言葉が、人に届くかもしれない”という実感だった。
「……ありがとうございました。ミカさん、ラッカさん」
「礼なんていいのよ。こっちも、成長した秘書仲間がいてくれる方が頼もしいから」
「へへ、今度はセレンにも“お悩み相談役”やらせてみようぜ?“記録に基づく的確すぎる返答”が期待できそうだしな」
「……それは、検討いたします」
セレンは、初めて「冗談」と理解できる文脈で言葉を返した。
それだけでミカとラッカは目を見合わせ、くすりと笑った。
――こうして、セレンは“記録者”から“提言者”へと、静かに一歩を踏み出した。
その歩みは遅くとも、確実にこの世界に小さな変化をもたらしていた。
そして彼女自身も、まだ気づいていなかったが――
その変化は、やがて魔王城全体を包む大きな波となっていく。