78話 ミカの助言 ― 記録と言葉のちがい
その日の午後――
魔王城中庭、木漏れ日が差す読書スペースにて。
ミカ・エストレーラは、紅茶を片手に書類の束をめくりながら、隣に座るセレンをちらと見やった。
彼女は例によって、無表情で記録帳を見つめたまま、硬直している。
「……ねえ、セレン」
「……はい?」
「今日の市民対応室、少し疲れた顔してるわよ」
セレンは一拍置いて、静かに答えた。
「……記録できない“声”が、そこにあった。書けることが、少なかったのです」
「ふふ、そりゃ当然よ」
ミカは穏やかに笑い、紅茶を一口飲んでから、静かに言葉を継いだ。
「“言葉”ってね、必ずしも“記録”のためにあるわけじゃないの。
ましてや“感情”は、数字じゃ測れない。人は……特に弱っている人ほど、“伝えるため”じゃなく、“聞いてほしい”から声を出すのよ」
セレンの目が、かすかに揺れた。
「……私は、耳を貸せていたのでしょうか」
「貸してたと思うわ。あなた、黙って代筆してたんでしょう? それだけで、救われる人はいる」
セレンはうつむき、記録帳を閉じた。その表紙には、今日もびっしりと細かい文字が並んでいる。
「ですが……“書けた”実感が、なかった。……それでも、何か残すべきだったのでしょうか?」
ミカは少し微笑んでから、優しく言った。
「記録帳は、過去を写すもの。でも、“提言書”は、未来を変えるものよ。
あなたが書いた代筆申請――それだって、ただの記録じゃなかった。“誰かのために書く”って、そういうことなの」
「……提言書、ですか?」
「そう。“問題の所在”じゃなく、“どう変えるべきか”を書くのが、秘書としての提言書。セレン、あなたならできると思う」
セレンはしばらく黙って考え込んでいたが、やがて静かに、表紙を開き直した。
「……市民対応室では、“記録不能な声”が多すぎる。制度の見直し以前に、“支援そのものの窓口”が機能していない。
――ならば、代筆支援担当の配置と、相談員の追加を提案すべきでしょうか」
ミカは少し驚いたように目を見開き、にっこりと笑った。
「正解。……やっぱり、あなたは“観てる”のね、ちゃんと」
セレンは、その言葉にどう返していいか分からず、少し視線を落とした。
「私は……感情の扱いが、苦手です。記録できないと、どうしても……不安になる」
ミカは優しく、しかしはっきりと告げた。
「セレン、それはね――“人を思いやった証拠”よ。不安になるのは、自分の記録が相手の力になっていない気がしたからでしょう?」
「……はい」
「なら、それだけで十分。あとは、あなたの“言葉”で、それを未来につなげればいい。記録じゃなくて、文章として。“思い”の形で」
セレンは、手の中のペンをじっと見つめた。
これまで無機質な記録しか書いてこなかった自分が、誰かのために“未来を変える言葉”を書く……。
それは、恐ろしくもあったが、どこか温かいものでもあった。
彼女は、静かに立ち上がった。
「……やってみます。提言書、書きます」
「うん、応援してるわ」
ミカは笑顔でそう言いながら、そっと紅茶のカップを差し出した。
「じゃあ、まずは糖分補給。さっきラッカにも言われたでしょ?“眉間にシワ寄せてばかりだと記録帳が泣く”って」
セレンは一瞬、表情を固めたまま固まったが――その唇が、ふっと、ほんの少しだけ動いた。
わずかな、しかし確かな――“微笑み”だった。
――この日の記録帳には、初めて感情のない数字や分析だけでなく、
こう記されていた。
《市民対応支援:感情は数値化できず。だが、記録は“心を救う言葉”にもなり得る。提言書草案、作成開始。》
それは、秘書としての第一歩ではなく――
人として、寄り添う者としての、第一歩だった。