77話 数字と声 ― 市民窓口の衝撃
魔王城西棟、第一市民応対室――
ここでは、魔族市民たちからの生活相談や陳情、雇用、住居などに関するあらゆる窓口業務が行われている。セレン・アルディナの視察先、三箇所目。
彼女はいつも通り、無言で記録帳を持ち、受付の奥で黙々と応対の流れを観察していた。
市民が訪れ、職員が対応し、申請用紙が処理される――そこまでなら問題はない。数字と手続きで完結する。
だが、次第にセレンの筆が止まり始めた。
窓口には、数字にならない「感情」が溢れていたのだ。
「うちの娘が、職場で人間にいじめられてるんです……魔族ってだけで、仕事も回してもらえない……!」
「この地区、冬場になると魔障が濃くて、子どもが具合悪くなるんですよ! 何年も放置されてるってどういうことですか!」
「お願いです、生活補助を……病気の妻を抱えて、もうどうにもならない……!」
セレンの冷たい瞳に、初めて「戸惑い」が浮かぶ。
(……声が、記録できない)
職員の一人が、後方に立つ彼女に気づいて苦笑した。
「セレンさん? あなた、立ってるだけじゃなくて、こっちにも来てみたら? 窓口業務、机上の書類とは違いますよ」
一瞬だけ迷いを見せたが、セレンは歩を進め、隣の受付に立った。
すると、すぐにひとりの老婆が彼女の前に来た。
「あんた……その、ええと、職員さん? 話を聞いてくれるのかい?」
セレンは微かに頷き、記録帳を開いた。
「……どうぞ」
「この通行許可証……もう三度も申請したのに、毎回“書類不備”って返されてね。ワシ、読み書きがあまり得意じゃないんだ……でも孫に薬を届けるには、どうしても外に出なきゃならなくて……」
「……誰も、記入を手伝ってくれなかったのですか?」
「そうだよ。忙しいから後にしてくれ、って。誰も、耳を貸してくれなかった」
老婆の目に、うっすらと涙がにじむ。
その表情に、セレンの指が止まった。
(これは……“書けない声”)
彼女は黙って申請書を取り、細かい欄を代筆し、老婆に確認を取りながら丁寧に埋めていった。
最後の欄まで終えたとき、老婆が小さく、深く頭を下げた。
「ありがとう、あんた……魔王様のとこに、こんな優しい子がいてくれて、ワシ……救われたよ」
セレンは何も言わず、記録帳の端に一行を書き加えた。
《対応記録:書類代筆と手続補助、本人感謝の意示す。》
ただそれだけ。
しばらくして、休憩室で待機していた彼女に、誰かが声をかけてきた。
「……なあ、お前さ」
赤茶の髪をぼさぼさにした青年――ラッカだ。広報部の雑務係だが、市民と触れ合う現場をよく歩いている男だ。
彼は腕を組み、斜めからセレンを見下ろすように言った。
「お前、記録魔術師だろ? さっきからずっと記録してるのは見てた。でもよ――」
彼はわざとらしく口を曲げて、続ける。
「人間や魔族ってのはな、数字や記号でできてねぇんだよ」
セレンは無言で見つめ返した。だが、その目にはわずかな反応があった。
「人の“痛み”も、“怒り”も、“願い”も、数値化できねぇ。記録できたとしても、そこにある“声”までは聞こえねぇ。お前には、それが見えてるのか?」
セレンは、ゆっくりと記録帳を閉じた。
「……見ようとは、しています」
「ほぉ……?」
「ただ、私にはまだ……それをどう記すべきか、分からない」
ラッカは一瞬、意外そうな顔をしてから、笑った。
「なら上出来だ。分かろうとしてる時点で、前に進んでる。最初から分かる奴なんていねぇよ。誰もな」
彼はポケットから小さな飴玉を取り出して、セレンの記録帳の上にポンと置いた。
「糖分補給だ。眉間にシワ寄せてばかりだと、記録帳が泣くぜ」
去っていくラッカを見送りながら、セレンは手元の飴玉を見つめた。
そしてそっと、記録帳の余白にこう記した。
《市民窓口視察:数値に現れぬ声、多数。補足手段の再検討必要。》
その筆致は、どこか柔らかさを帯びていた。
――彼女の中で、何かが静かに、確かに動き出していた。