76話 視察開始 ― 無言の観察者
魔王城・中央管理庁。その一角にある「文書管理部」は、魔王アーク=ヴァルツ直轄の情報集積所だ。ここには、あらゆる政策記録、視察報告、民衆の陳情、軍事書簡などが集められ、機械的に整理されていく。
その中心に、ひとりの無口な少女が座っていた。
白銀の髪を肩で切りそろえ、冷たい硝子のような瞳を持つ――セレン・アルディナ。
無駄な会話を避け、命じられた仕事を正確にこなす。感情の起伏をほとんど見せないその姿から、周囲は彼女を「氷の記録者」と呼んだ。
この日、ミカから渡されたのは一枚の任命書だった。
「視察・記録担当……各部門への常駐と調査。報告書提出は週次。承認済み。……ふぅん、珍しい配置ね」
書類を渡すミカは、苦笑いを浮かべて彼女を見つめた。
「セレン、あんた文句言わないだろうけど……視察ってのは、机上の文書とは違うのよ? 人と会って、話して、観察して、記録する。苦手そうだけど、できる?」
セレンは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと答えた。
「……問題ありません。命令は、遂行します」
「うーん……その“問題ありません”って言い方が、一番心配なのよね……。まぁいいわ。まずは魔導工房の視察から。ここに報告書フォーマットも添えておくわね。あ、ちなみに、アーク様もこの記録には目を通すって言ってたわよ?」
その言葉に、セレンの指先が一瞬だけ止まった。
「……了解しました」
「ふふ、よろしい。じゃ、行ってらっしゃい。記録者さん♪」
* * *
魔導工房は、魔王軍の中でも最先端の研究と技術開発を担う部署だ。巨大な錬金炉が唸り、蒸気と魔力が入り混じった空間では、研究員たちが慌ただしく動き回っていた。
「おい、そっちのフラスコ冷やせ! 魔力反応が上がりすぎてる!」
「制御術式ズレてるぞ、セラリア! ったく、何度言えば……あ、見学者か?」
セレンは構わず、無言で記録帳を開き、無駄な声をかけることなく動線や作業手順、材料管理の状況などを正確に記し続けた。
その様子を見た主任研究員が、やや困ったように声をかけてきた。
「……あのさ。せめて何か質問くらい、してくれないか?」
セレンは静かに顔を上げた。
「観察を優先しています。必要があれば、後ほど質問します」
「そ、そうか。まぁ、記録が仕事ってのは分かってるが……なんというか、あんた見られてる側としてはちょっと怖いんだよね」
「……感情による誤認を避けるため、言葉を減らしています。記録に影響が出ないように」
「なるほど、合理的ではあるが……人間味がねぇな」
主任はぼやきながらも、セレンの視線を気にして仕方がなさそうだった。
セレンはそんな周囲の反応にも動じず、淡々とページをめくっていく。彼女の記録帳には、詳細な観察データが次々と綴られていった。
【魔導工房視察報告・初日】
・平均作業速度:標準時間+12%(魔力拡散対策遅延)
・指示系統の重複多し。主任・副主任の命令が二重に発生。
・資材ロス報告なし。炉出力は許容範囲内。安全性高し。
・作業者との意思疎通には感情的負荷が影響。最適化の余地あり。
――その筆致には、まるで血が通っていない。だが、正確無比で、美しい整然さがあった。
* * *
午後の視察先は「人事局」だった。部署間の配属調整や、種族ごとの適性評価などを行う、魔王軍の中枢部である。
そこで彼女は、少しだけ表情を曇らせた。
「……“適性評価”に、主観が含まれている」
端末に表示された履歴を確認しながら、彼女は呟いた。
「同一能力のドワーフと人間。評価に、2段階の差。……根拠、不明」
書記官が慌てて弁明する。
「あっ、それはですね、文化的背景や協調性の点で……その、数値化しにくい部分を――」
「不明瞭な評価は、信頼性を損ねます」
「……し、失礼しました」
そう言い残し、セレンは無言でその場を後にした。
* * *
一日の終わり、彼女は黙々と報告書をまとめていた。
その内容は極めて正確で、明確な問題点を指摘していた。だが、そこには“人”の感情も、“温度”も感じられなかった。
彼女自身、気づいていなかった。
この日、ある視線が彼女をずっと見つめていたことに――
それは、ミカの視線。
そして、魔王アーク=ヴァルツが、執務室でその報告書を手にしながら静かに呟いていた。
「……彼女の記録は、まるで氷のようだな。だが――氷もまた、水から生まれた。ならば、心がないとは限らない」
セレンの記録と観察の旅は、まだ始まったばかりだった。
その冷たいペン先が、誰かの心を知る“言葉”へと変わる日を、まだ彼女自身は知らない。