73話 最初のオリエンテーション ― 試される“理念”
石造りの天井に反響する靴音。
三人の秘書候補――セレン、ユーリ、ラッカが案内されたのは、魔王直属の執務棟、その最奥にある円卓の会議室だった。
中央には黒曜石の円卓。周囲には歴代の魔王や将軍たちの肖像画が厳かに並んでいる。
どの顔も、時代の重みと権威を湛えている。
だが、今その中心に座るのは、一人の女性秘書――ミカである。
彼女の前には、空の座席が三つ。
セレン、ユーリ、ラッカが、まるで舞台の幕が上がるのを待つように着席した。
ミカは静かに立ち上がった。
「――ようこそ。“次代秘書育成計画”、初日の始まりです」
彼女の声は静かで、だが空気を震わせる重さがあった。
「まず伝えておきます。この計画は、遊びではありません。
あなたたち三人には、魔王アーク=ヴァルツ陛下のもとで、未来の城を支える“影”となる資質があると、判断されました」
セレンが手を上げる。
「その“判断”を、誰が? どういう基準で?」
ミカは一瞬だけ、セレンを見た。だが感情は浮かばない。
「複数の記録と実績、そして――私の目と、魔王陛下の意思です」
セレンはわずかに頷き、黙った。
次に口を開いたのはラッカだった。
「なぁ、あんた。“影”とか言ってるけどよ、秘書ってのは結局、上の奴の言いなりじゃねぇのか? 俺ぁ自分の意見を黙らせる気はねぇぞ」
「結構です」
ミカは微笑すらせず、答える。
「意見を持たぬ者に、未来は任せられません。ただし――“意見”と“我”を混同しないように。
組織の理念に沿わない声は、ただの騒音です」
ラッカは「チッ」と舌打ちして天井を見上げる。
ミカは視線を三人に向け、円卓の上に一枚の紙を広げた。
「ここに書かれているのが、現・魔王城の“理念”です」
『すべての種族に、尊厳と平等を。魔王城は力ではなく、知と調和で支配する』
ユーリが思わず、手を胸元で組む。
「なんて……美しい言葉。まるで、祈りのようだわ……」
「それは理念です。祈りであり、指針です」ミカが続ける。「そしてこの理念に、あなたたちは自らをどう重ね、どう生かすか。今日は、それを聞きたいと思っています」
そう言って、三人を順番に見た。
「では――“志望動機”を、話してください。順番は……セレン、あなたから」
セレンはすっと立ち上がる。背筋は凛としている。
「私は“記録官”として生きてきました。過去の戦争、災厄、そして再建の歩みを、記録することが私の任務でした。
ですが――記録するだけでは、何も変わらないと気づきました。
真実を記し、届けるためには、“中心”にいなければならない。だから、ここに来ました」
ミカは頷いた。
「“知”の継承者としての視点。興味深い動機です。では、次。ユーリ」
ユーリはゆっくりと立ち、口元に微笑を湛えた。
「私は――言葉で、誰かを救えると信じています。
私の故郷は、多種族が共存する交易都市でしたが、言葉の違い、文化の壁で、多くの誤解と争いが生まれました。
私は通訳士として、その橋になろうと努力してきました。
でも、民の言葉が上に届かない限り、世界は変わらない。だから、私はこの場所で、“声”を上へ届ける者になりたい」
ラッカが小さく鼻で笑った。
「お次は、俺か?」
彼は腕を組み、立ち上がると、肩をすくめて言った。
「俺はよ、別にお上品な動機があるわけじゃねぇ。
だけどな、クソみてぇな道路、泥水まみれの食糧倉庫、文句すら言えねぇ労働者たち……見てきたんだよ、腐った現場を。
だったら、口だけの奴らのそばに立って、ぶん殴ってでも“現場の声”を聞かせてやるって、思っただけだ」
沈黙が流れる。だがミカはその粗雑な言葉に、一切眉を動かさずに言った。
「結構。あなたの“怒り”もまた、理念を持つ理由です」
ミカは全員を見渡し、再び座った。
「――さて、君たち三人には、これから数ヶ月にわたって、魔王城の各部署を巡り、実務を学び、そして“理念を実践する者”になることを目指してもらいます」
そのとき、部屋の扉が音もなく開いた。
現れたのは、黒衣を纏った魔王――アーク=ヴァルツその人だった。
全員が息を呑んだ。だがミカだけが静かに頭を垂れる。
「陛下、早すぎます」
アークは歩を進め、円卓の向こうから三人を見つめた。瞳は氷のように澄み、炎のように鋭い。
「――理念とは、問うものではない。生き様で、示せ」
低く、重く、それでいて静謐な声。
その言葉に、セレンは背筋を伸ばし、ユーリは目を見開き、ラッカは拳を握りしめた。
アークはただ一言、残した。
「見せてもらおう。未来を、託す価値があるかどうか」
そして、音もなく立ち去る。
沈黙のあと、ミカが静かに言った。
「ようこそ。試練の門へ――“秘書”を目指す者たちよ」