233話 火と共にある者 ― アリアの治安演習
秋風が市街の路地をすり抜け、乾いた木の葉を転がしていく。
その街の一角に、王宮から派遣された治安部隊の演習陣が集結していた。武装は最小限、しかし一糸乱れぬ規律をもって整列している。その中に――赤い髪を揺らす少女の姿があった。
アリア。
彼女は今、若手育成部隊の一員として“市街治安演習”に臨もうとしていた。
「殿下。準備はよろしいですか」
隊長格の壮年の兵が問いかける。
「はい。……えっと、緊張してないって言えば嘘になるけど、大丈夫。炎は――裏切らないから」
アリアは小さく拳を握り、笑顔を返した。
その言葉に兵士たちがどこか安堵の表情を見せる。
まだ年若い王女が共に立つことで緊張が増すかと思いきや、むしろその“素直さ”が心を和らげていた。
演習の目的は、街に潜む模擬的な暴徒役を鎮圧すること。
だが単なる力任せの制圧ではない。市民を傷つけず、秩序を守りながら動くことが求められる。
「――つまり、火力で吹き飛ばすわけにはいかないってことね」
アリアは小さく呟いた。
彼女の火魔法は、いまや父をもしのぐ規模を見せることがある。
だが同時に、その力は常に“加減”と“制御”を求められる。
火は守りにもなれば、破壊にもなる。
それが今日の彼女に課せられた試練だった。
市街区の模擬演習開始を告げる鐘が鳴る。
兵士たちは散開し、アリアは前線に立った。
「暴徒が東の路地に出た! 十名ほど!」
「市民役が逃げ遅れているぞ!」
情報が飛び交う。
アリアは即座に走り出した。
「こっちは任せて! ……火の精霊よ、私の手を導いて!」
掌に宿した炎がふっと灯る。
しかしその輝きは戦場の焔ではなく、まるで灯火のように柔らかい。
アリアは火の弾を暴徒役の足元に落とし、土煙と熱気で彼らの動きを封じた。
決して焼かない。だが威圧するには十分だ。
「ひっ……!」
暴徒役の兵士たちは思わず後退する。
「市民役の人たち! こっちに!」
アリアは笑顔で手を差し伸べ、逃げ遅れた役の男女を誘導する。
作戦が進む中、彼女は仲間の兵士たちと合流した。
「殿下、すごい……あの火の使い方……」
「俺たちより冷静じゃないか」
「冷静っていうより……怖いんだよ」
アリアは照れくさそうに笑った。
「火を出すのって、怖い。でも怖いから、ちゃんと考える。そうしたら、きっと燃やさなくても済むんだって……」
兵士たちは目を見合わせ、彼女の言葉に重みを感じ取った。
炎を恐れず、しかし決して侮らない。
それは幼い少女が成長しつつある証だった。
市街地の模擬演習は、順調に進んでいるように見えた。
だが――突然の報告が走る。
「西の広場で騒乱発生! 暴徒役が予定外の動き! 市民役が取り囲まれている!」
予定外。
つまり“想定を超えた事態”だ。訓練であっても、臨機応変さを試すために仕組まれることがある。
兵士たちがざわついた。
「どうする!? 間に合わないぞ!」
「広場は狭い、下手に突っ込めば市民役を巻き込む!」
アリアは迷わず前へ出た。
「私が行きます!」
「殿下!? 危険です!」
「大丈夫! 火は……私が守るために使える!」
その言葉には確かな決意があった。
西の広場。
暴徒役の兵士たちが市民役を囲み、混乱に拍車をかけていた。
アリアは全力で駆けつけ、中央に飛び込む。
「みんな、下がって!」
地面に手をかざし、炎を走らせる。
ぱっと鮮やかな火線が描かれ、市民役と暴徒役の間に“赤い壁”が生まれた。
だが燃やすのではない。まるで守護の結界のように炎は立ち上がり、誰も越えられぬ境界を作った。
「……こんな使い方、できるんだ」
市民役の少女が震えながら見上げる。
「大丈夫。これは“守る炎”だから」
アリアはにっこり笑って答えた。
しかし暴徒役も黙ってはいない。
「火に怯むな! 突っ込め!」
一人が無理に突破しようとした瞬間、炎は形を変えた。
まるで生き物のように彼の足元を縛り、前へ進めなくする。
熱いが、焼かない。
怒りを和らげ、ただ“立ち止まらせる”力。
それは、以前のアリアなら決してできなかった制御だった。
「殿下、どうやって……!」
「怖がってるからだよ」
アリアは小さく呟いた。
「炎が暴れるのが怖い。だから……ちゃんと話しかける。『燃やさないで、守って』って。……それだけ」
周囲の兵士たちは言葉を失った。
それは単なる技術ではなく、炎との対話。
火を恐れ、そして愛する者だけができる業。
やがて状況は収束し、演習終了の合図が鳴る。
市民役たちは無事救出され、暴徒役も制圧された。
広場の片隅で、アリアは大きく息を吐いた。
「ふぅ……終わった……」
「殿下!」
駆け寄ってきた兵士が深々と頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました。あの炎がなければ、きっと取り返しがつきませんでした」
アリアは少し照れたように笑う。
「私、昔は……火を出すと、全部壊しちゃうんだって思ってた。でも……違った。炎は、ちゃんと守ってくれる。……私が、そう願えば」
その声は幼い響きを残しながらも、どこか大人びていた。
夜。
演習を終え、王宮に戻る馬車の中でアリアは窓の外を眺めていた。
街の灯火が遠ざかり、夜空の星が輝く。
「……私、火と一緒に生きていくんだ」
ぽつりと独り言を落とす。
「壊すためじゃない。守るために……“火と共にある者”として」
その瞳は、もう迷いの色を宿してはいなかった。




