232話 戦術本部の洗礼 ― アレイドの適応
王都の中心部、巨大な石造りの塔の一角に戦術本部はあった。王国全土の軍勢や防衛線を管轄する中枢。そこに並ぶのは歴戦の将軍、練達の魔術師、そして冷徹な書記官たち。
その場に初めて足を踏み入れたアレイドは、思わず口笛を吹きそうになるのをこらえた。
(……うわあ、空気が重い。兄さんの政務会議も張り詰めてたけど、こっちはもっとだな。戦場の匂いが充満してる)
革靴が石床を打つ音すら響くほどの沈黙のなか、彼は迷いなく歩を進めた。
彼の前で立ち止まったのは、白髪交じりの厳つい将校――参謀長ヴァルクだった。
「お前がアーク殿の次子、アレイド殿下か」
「はい。お世話になります」
アレイドは軽く会釈した。緊張を表に出さぬその態度に、ヴァルクはわずかに目を細める。
「初日から口を挟む気はあるか?」
「もちろん。……ただし、外すかもしれませんが」
にやりと笑うアレイドに、参謀たちがざわめいた。若造の無鉄砲か、それとも――。
すぐに会議は始まった。
机の上に広げられた地図には、北境からの侵入路と補給路が赤く線を引かれている。偵察兵が持ち帰った報告によれば、国境近くで魔物の活動が活発化しているという。
「補給線を守りつつ、村落を避難させねばならん。しかし兵力には限りがある」
「守りを厚くすれば進軍は遅れる。遅れれば、冬の凍結に間に合わん」
将官たちの声が飛び交う。
アレイドは椅子に腰を下ろしたまま、指先で机を軽く叩きながら聞いていた。
(……要は、守りたいものが多すぎて動けなくなってるってことか。補給線、村人、兵士の消耗……どこかで取捨選択しないと)
やがて、参謀の一人が苛立った声をあげた。
「殿下。ご意見を伺いたい。無論、戯言であれば即刻却下するが」
アレイドは微笑を浮かべ、立ち上がった。
「では、戯言にならないよう頑張りますね」
彼は地図に歩み寄り、指で赤線をなぞった。
「補給路を一本に絞ればいいと思います。安全な村落の道を選び、そこを重点的に守る。代わりに、他の補給線は思い切って捨てる」
「なに……?」
「そんな愚策があるか!」
すぐに反発の声があがる。
しかしアレイドは慌てず、さらりと続けた。
「ただし、捨てた補給線は完全に放棄するんじゃない。目立つ偽の補給物資を配置して“おとり”にするんです。敵や魔物がそちらに群がれば、本命の補給路は守りやすくなる」
「…………」
参謀たちが口をつぐむ。
アレイドは両手を広げ、軽い調子で言葉を繋いだ。
「全部を守るのは無理。でも全部を活かす方法なら、あるかもしれない。僕らがすべきは“守るか捨てるか”じゃなくて、“どう利用するか”じゃないでしょうか」
その瞬間、場の空気がわずかに変わった。誰もが否定しきれず、思案顔を浮かべる。
ヴァルク参謀長が口を開いた。
「……理屈は通っている。だが、偽補給の準備には余計な労力もかかる」
「ええ。でも、本命の補給が無事に届くなら、その労力は“安い買い物”ですよ」
アレイドは軽く肩をすくめる。
その姿に、ある参謀が苦笑を漏らした。
「若いが……柔らかい頭を持っておられる」
「いや、柔らかすぎて危ういところもあるぞ」
笑いと警戒が入り混じった空気。だが確かに、彼らの目はアレイドを“単なる新参”とは見ていなかった。
会議後、廊下でヴァルクが声をかけた。
「殿下、今日の進言は……悪くなかった」
「褒め言葉として受け取ります」
「だが覚えておけ。戦術は紙の上では成り立つが、実戦では常に崩れる。その時に立ち直れるかどうか――それが真価だ」
アレイドは真剣な顔で頷いた。
「はい。僕は失敗も全部、次に繋げるつもりですから」
参謀長はわずかに目を細め、その背を見送った。
その夜、アレイドは自室でひとり呟いた。
「……戦術本部の洗礼、ってやつか。兄さんが“人の心”で場を動かしたなら、僕は“柔軟さ”で突破するしかない」
窓の外に星が瞬く。
彼は胸の奥に、熱ではなく冷静な火種のような決意を抱いた。
(俺の役割は、万能であること。どんな状況でも対応し、失敗すら次に変える。それがきっと、兄さんやアリアを支える力になる)
彼の瞳は、迷いなく未来を見据えていた。
数日後。
アレイドは早速、小規模ながら重要な任務に組み込まれることになった。北境の森にて、補給路の一部を守りつつ、囮として配置した物資が正しく“餌”の役割を果たすかを確認する作戦である。
「殿下、現場指揮は副将のカムイが取ります。殿下には随行し、判断を補佐していただく」
「了解です。……僕が足手まといにならなければいいですけどね」
アレイドは軽口を叩くが、目の奥は真剣だった。
森の奥。
夜の冷気が漂う中、焚き火を消した野営地で緊張感が走る。
アレイドは双眼鏡を片手に、囮物資を置いた谷間を見下ろしていた。
「……来るな。魔物だ。狼型か?」
「数は十……いや十五。想定より多いぞ!」
斥候の報告に、兵士たちがざわめく。
副将カムイが即座に号令を飛ばした。
「迎撃部隊、囮の物資から敵を引き離せ! 殿下、いかがなされますか!」
カムイの視線がアレイドに突き刺さる。
まだ若い王子に指揮を仰ぐことなど本来は考えられない。だが、これは“戦術本部の洗礼”でもある。
アレイドはわずかに考え、口を開いた。
「囮物資はあえて守らなくていい。逆に“守りに来る”ように見せかけて兵を散らすんだ」
「どういう意味だ?」
「敵は、兵が必死に守ろうとする場所を“本命”だと考える。だから一部の兵だけが囮に駆け寄れば、敵はそこに集中する。その隙に別動隊で背後を突く」
兵士たちが息をのむ。
カムイは目を細めてから、短く命じた。
「……よし、試してみろ! 迎撃班、三人だけ囮を守れ! 残りは背後に回れ!」
やがて魔物の群れが谷間に雪崩れ込んできた。
数で劣る三人の兵士が懸命に防御姿勢を取ると、群れはまさしくそこに引き寄せられていった。
「――今だ!」
カムイの号令と同時に、背後から矢の雨が降る。
魔物たちは驚愕の咆哮を上げ、混乱に陥った。
アレイドは息を詰め、手の中の短剣を握った。
もし策が外れれば、自分も前に出る覚悟だった。
だが――結果は明白だった。
魔物の群れは二手から挟撃され、わずか十分も経たぬうちに森に屍をさらすこととなった。
戦闘後。
兵士たちが勝利の息をつきながらアレイドを振り返る。
その目には、尊敬と驚きが入り混じっていた。
「殿下、見事な読みでした」
「いや……あれは半分は賭けでしたよ。敵が“賢すぎなければ”うまくいくと思っただけです」
アレイドは苦笑しつつ肩をすくめた。
だが兵士のひとりが、真剣に言葉を返す。
「賭けを賭けのままで終わらせず、勝ちに変えたのは殿下の力です」
アレイドは目を伏せ、そしてわずかに笑った。
「……ありがとうございます。けど僕は、まだ兄さんやアリアには遠く及ばないですよ」
王都に戻った夜、戦術本部の会議室。
ヴァルク参謀長は作戦報告を聞き終えると、アレイドを真っ直ぐに見た。
「殿下。机上の空論は試練を経て現実となった。……だが忘れるな、次は必ずまた違う困難が来る」
「はい。だから僕は、何度でも柔らかく変わります。硬く折れるより、しなやかに曲がって、また立ち直る。僕の強みは、そこだと思いますから」
静かな言葉だったが、そこには確かな芯があった。
参謀長は思わず苦笑を浮かべた。
「まったく……万能というのは、時に最も厄介だな」
その夜、アレイドは自室の机に向かい、日誌を記した。
――戦術本部の洗礼を受けた。
――僕は突出した才能はない。けれど、どの場でも臆さず立つことができる。
――それが“僕らしい武器”なのだと思う。
ペンを置き、窓の外に目をやる。
遠くに見える王城の塔、そのさらに向こうには、兄ルシアも、妹アリアも、それぞれの戦いをしている。
「俺も負けないさ」
小さな声でつぶやいた。
それは誰に向けた言葉でもなく、自らへの誓いだった。




