231話 政務の檜舞台 ― ルシアの初陣
王都に秋風が吹き抜ける頃、ルシアはついに「その場」に立つことになった。
父アークに代わって、王宮の政務会議へ出席する。――まだ見習い、まだ若き第一王子に過ぎないはずだ。だが周囲の視線は容赦なく彼を「後継の影」と見なし、試すように注がれていた。
「……深呼吸をして、胸を張ればいい」
扉の前で足を止めたルシアの耳に、母ミカの声が思い出のように響く。
「お前ならできるさ。無理に父の真似をするな。お前にはお前の言葉がある」
それは父アークが昨夜、短く残した言葉。
重厚な扉が開かれる。議場の中には、地方領主たち、軍務卿、財務卿、そして老練な重臣たちがずらりと並んでいた。
息を呑む空気のなか、ルシアは一歩、また一歩と歩みを進め、父の代行として用意された席に腰を下ろす。
「……第一王子ルシア殿下、ご着席にあらせられる」
侍従が告げると、会議は始まった。
◆
「さて、まずは北方領の収穫報告からだ」
農政卿が報告を読み上げ、議場に硬質な声が響く。数字と税率が飛び交い、現場の事情と王都の要求が衝突する。
「今年は天候不順で収穫が落ちました。それに兵糧の備蓄を優先せねば、領民が冬を越せません!」
「だが税を減免すれば王都の財源が枯れる!」
「均衡を保つためには、どこかが犠牲にならねばならぬ!」
声が高ぶり、互いに譲らぬ領主たち。
ルシアはしばらく黙っていた。若い自分が口を出しても、軽んじられるのは目に見えている。だが――その時。
「殿下は、どう思われますか?」
鋭い目をした老臣が、試すように問いかけた。
議場が一斉に静まる。
すべての視線がルシアに注がれた。
「……私が、ですか」
ルシアは一拍置き、ゆっくりと立ち上がった。心臓は高鳴っているが、不思議と怖さはなかった。
「北方の冬が厳しいのは、ここにいる誰もが知っています。収穫が少ないなら、領民に税を強いることはできません」
「しかし殿下、それでは王都が立ち行かぬ」
「財の流れを止めれば、兵の食も尽きますぞ!」
声が飛ぶ。
だがルシアは笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「では、問います。――王都に暮らす人々と、北方の民と、どちらがより厳しい冬を迎えるでしょう?」
一瞬、議場が言葉を失った。
「王都は交易で補えます。温暖な地方から物資を引く道もある。しかし北方は雪に閉ざされる。王都の一部が倹約することで、千の命が救えるなら……それが“王国”の名にふさわしい形だと、私は思います」
ざわめきが広がる。若き王子の言葉に、老練な者たちが顔を見合わせた。
「……殿下、それは理想論に過ぎぬのでは」
別の重臣が低く言う。
「理想を語れぬなら、王家は要らない」
ルシアはきっぱりと答えた。
「現場の声を聞き、全体の均衡を守るのが政務です。けれど、均衡のために命を軽んじるのは、私は違うと思う。……父ならどうするか、母ならどう語るか、私は知っています。だから、私の口からも言いましょう。――王都が我慢を学ぶ時期なのです」
静寂が訪れた。
「……ふむ」
最初に笑ったのは、北方領の領主だった。
「若いが、確かに王の血を継ぐ者の言葉だ」
「殿下の意見に、私は賛同する」
数名の領主が頷き、空気が変わっていく。反対の声もあったが、次第に「試す場」から「聞く場」へと議場の空気が傾いていった。
ルシアは深く息を吐き、そっと腰を下ろした。
緊張の汗が背を伝っている。だが、胸の奥には確かな手応えがあった。
「……よくやったな」
小声で隣に座る書記官が囁いた。
「まだ始まったばかりです」
ルシアは微笑んで答える。
「けれど――きっとここから、もっと濃くなるのでしょう」
会議は進み、議題は財政から軍備、さらには外交へと移っていった。
硬直した空気のなかで、ルシアは耳を澄ませ、時折口を開いた。最初の発言で注がれた視線は依然として重い。だが、その重さを飲み込みながら、彼は思った。
(言葉一つで、人の心は動く。……父や母は、これを幾度となく繰り返してきたんだ)
「殿下、交易路の安全確保には軍の増派が不可欠です。だが、それでは他の防衛線が薄くなる」
軍務卿が渋い顔をする。
「戦力を分ければ、どちらも守れなくなる恐れがある」
「しかし放置すれば商人が逃げ、財政に穴があく!」
議場はまたも荒れ模様になった。
ルシアはしばらく考え込み、ふと口元をほころばせる。
「では……両方を守る方法を考えましょう」
「両方を? そんな都合のいい――」
誰かが鼻で笑った。
だがルシアは怯まず、落ち着いた声で続ける。
「王都に詰めている近衛や予備兵を、短期で交代させてはいかがでしょう。商路を守る部隊を交代制で派遣すれば、各地の防備も極端に薄くならずに済みます。商人たちにとっても“常に兵がいる”ことが安心につながるでしょう」
「……なるほど」
「一時的な出費はあるが、長期的には安定か」
「予備兵に実戦経験を積ませることもできる」
議場に肯定的な声が広がっていく。
その時、ルシアは何気なく笑って言った。
「それに……兵たちも、たまには王都を離れて風にあたったほうが、いい気分転換になるかもしれませんね」
一瞬、場に笑いがこぼれた。重苦しい空気が和らぎ、険しかった表情にほのかな緩みが生まれる。
「殿下……なかなかの采配でございますな」
「若いのに、よく人心を掴む」
重臣たちが口々に感想を漏らし、空気が変わっていく。
ルシアはその変化を敏感に感じ取りながら、内心で深く息を吐いた。
(……緊張はまだある。でも、言葉で場を変えられるなら……怖くはない)
会議が終わる頃、北方領の老領主がゆっくりと立ち上がり、ルシアに近づいてきた。
「殿下。初めての政務にしては、大したものだ。わしも長く生きておるが、あの若さで人の顔色を和らげられる者を、そうは見たことがない」
「ありがとうございます。ですが……私はまだ、父や母の足元にも及びません」
ルシアは頭を下げた。
老領主はにやりと笑い、肩を軽く叩いた。
「足元に及ぶ必要はない。殿下は殿下の歩幅で進めばよい。それがやがて――王国を動かす力となる」
その言葉に、ルシアははっとした。
父や母の背を追うのではなく、自分の言葉で人を導く。それこそが、自分に課せられた道――。
会議が終わり、廊下に出ると、待っていたのはアレイドだった。
「お疲れ、兄さん」
軽やかな口調で声をかけ、ルシアの肩に手を置く。
「見てたのか」
「もちろん。王都の戦術本部に行く前に、ちょっとだけ覗いてやろうと思ってさ」
アレイドは笑いながらも、少しだけ真剣な瞳をしていた。
「……堂々としてたよ。さすが兄さんだ」
ルシアは苦笑し、肩をすくめる。
「堂々としてたように見えたなら、成功かな。内心は、汗だくだったんだ」
「それでいいんだろ。怖さを抱えたままでも前に立てる。それが本物の胆力ってやつじゃない?」
その言葉に、ルシアは目を瞬き、それから小さく笑った。
「……ありがとう。アレイド」
遠くで鐘が鳴り、秋の空気が王宮に流れ込む。
ルシアは窓から見える空を仰いだ。
重責と不安、そして確かな希望。
(政務の道は、まだ始まったばかりだ。……けれど、今日の一歩を忘れなければ、きっと前に進める)
彼の胸に灯ったのは、父から受け継いだ“責任”と、母から受け継いだ“優しさ”の火。
そしてそれは、確かに未来へと繋がっていくものだった。




