216話 はじまりの朝、三人のまなざし
朝靄の立ちこめるヴァルツ城のバルコニーに、淡い陽光が差し込み始めていた。夏の終わりを告げる涼やかな風が、高台の空気をほんの少し冷たく運び、赤く染まり始めた空を背景に城内がゆっくりと目を覚ましていく。
食堂には、家族の穏やかな気配が満ちていた。アーク・ヴァルツはいつもの椅子に座り、無言のまま新聞をめくっている。ミカ・エストレーラは給仕を終えると、ゆるやかに家族を見渡して微笑んだ。
アレイド・エストレーラは、今朝も端正に制服を着こなしている。目の前のパンに手を伸ばす動き一つとっても、計算された無駄のなさがある。だがその眼差しは、ふとした拍子に窓の外へ向く――何かを思いながら。
「……今日も、王都からの使者が来るらしいね」
アレイドがぽつりと呟いた。
「ふぅん。あんたまた、呼ばれてるの?」
とアリアが少し口をとがらせる。彼女も制服に袖を通していたが、どこか動きに落ち着きがある。それは、かつての"暴走"と紙一重だった情熱が、彼女の中で形を持ち始めた証だった。
「うん。今度は戦略機構じゃなくて、中央魔術院の方から。『兵站と魔術技術の融合モデル』に関して、話を聞かせてほしいんだとさ」
「それって……」
アリアの声にルシアが続いた。
「つまり、軍部と学術側、両方がアレイドを“使いたがってる”ってことだろ」
その言葉には、羨望もあるが、確かな誇りが込められていた。
ルシア・ヴァルツ。ヴァルツ家の長男にして、次期魔王候補と目される少年。その瞳は真っ直ぐで、責務を受け入れる覚悟を内に秘めている。政務や軍務に関してはすでに補佐官からの指導を受け始めており、彼の一挙手一投足には父アークの影がちらつく。
「でも、俺も近々、北の守備領へ視察に行くことになってる。父上のように……国を『見る』仕事を、始めないといけないからな」
「ふーん……。やっぱり、ルシアは“王様”の顔になってきたね」
とアリアが微笑ましく茶化すように言った。だがその声に棘はない。兄を誇らしく思う気持ちが、ふわりと空間を温めた。
ミカは、そんな三人の様子を見守りながら、さりげなく言葉を紡ぐ。
「……あなたたち三人が、それぞれ違う空を見ているのが、私は好きよ」
「空?」
とアリアが小首をかしげる。
「ええ。それぞれが、同じ空の下にいても、見るものも、目指すものも違う。だけど――どこかで、必ず繋がっている」
ミカの言葉に、三人は一瞬だけ言葉を失い、次いで、なんとなくお互いを見合った。
「……僕は、誰かの背を支える風になりたい」
とアレイドが静かに言った。
「俺は……この国と、家族を守る盾になる。それが“王”としての役目なら」
とルシアが応じる。
アリアは窓の外を見ながら、少しだけ口を引き結び、そして。
「私は、照らす焔になる。誰かの暗い夜を、照らしてあげられるような……そんな存在に」
言葉にした瞬間、三人の心の奥に何かが触れた。
アークは新聞を閉じ、わずかに笑った。
「……ならば、それぞれにその道を進め。王の子である前に、一人の人間として、信じるものを抱いていけ」
朝の光が、まるでそれを祝福するように差し込んだ。
彼らはまだ若く、未熟で、迷いのなかにある。
だがその瞳に映る空は、もはや"誰かの背"を追うだけのものではない。
それぞれが、自らの未来へと視線を向け始めていた。




