211話 父の庭 ―静かなる稽古のはじまり
魔王城の裏庭は、夜露に濡れた芝生の香りと、石畳の冷たさが静かに広がる場所だった。昼間は侍衛や訓練兵たちが集う訓練場でもあるが、今は月の光と、ぽつぽつと灯る魔術灯だけが彼女を迎える。
アリアは息を吸い込み、胸の奥の熱を感じ取った。
この熱は、幼い頃からいつも自分の中にあった――炎の魔力。
けれど最近は、以前のように暴れるばかりではなく、心の揺れとともに静かに燃えることもある。
「……来たか、アリア」
背後から低い声が響いた。
振り向けば、父――魔王アーク・ヴァルツが立っていた。黒い外套を軽く羽織り、剣も魔具も持たず、ただの“父”の顔で。
だが、夜の静寂に溶け込むその佇まいには、やはり王の威が漂っていた。
「父様……あの、呼んでくれたのは……」
「ああ。稽古をしようと思ってな」
アークはゆっくりと歩み寄り、裏庭の中央に立つ。
そこは、彼が幼い頃から無数の稽古を積み、今では子どもたちの訓練場所にもなっている場所だ。
「お前の炎は、もう“ただ暴れる焔”ではないと、母から聞いた」
「……母様が?」
「この前の模擬戦のことも、救出劇のこともな。お前は変わろうとしている。だからこそ――一度、私と向き合え」
アリアは、心臓がドクンと鳴るのを感じた。
父と正面から稽古する。それは幼い頃からの夢であり、少しの恐怖でもある。
「……私、ちゃんとできるかわからないけど」
「できなくても構わん。大事なのは、“向ける心”だ」
アークの声は、どこまでも静かで、夜気に溶けるようだった。
アリアは深呼吸をし、右手を掲げる。
指先から小さな炎が生まれ、彼女の表情を赤く染めた。
以前なら勢いだけで燃え広がる炎も、今は胸の奥の鼓動に合わせるように揺らめく。
「……落ち着いているな」
「うん。前よりは……多分」
「よし。では、動いてみろ。炎は、お前の足と手の延長だ」
アークは剣を持たず、ただ軽く身を構えるだけだった。
アリアは足元に魔力を流し込み、小さな火球を生み出す。それを短く飛ばし、同時に踏み込み――
「はっ!」
火球が空を裂くように飛ぶが、アークは軽く身をひねっただけで避ける。
火花が芝生に散り、夜の空気にぱちぱちと音を立てた。
「悪くはないが、まだ焦っている」
「くっ……!」
アリアは再び炎を練る。今度は二発、そして足元の炎を滑らせて加速する。
その勢いはまるで夜空を裂く彗星のよう――だが、父は一歩も動かず手のひらを軽くかざしただけで、炎の軌道を逸らした。
「……あっ!」
「炎は力だが、制御されなければただの風任せだ。お前が進みたい先を、炎に教えてやれ」
アリアは唇を噛む。
目の前に立つ父は、圧倒的な存在感を持ちながらも、決して威圧してこない。
ただ、静かに、彼女に“向かう心”を求めているだけだった。
「父様……私、前は強くなることだけ考えてた。
でも、誰かを守ろうと思ったら……こんなに、手が震えるんだね」
アークは短くうなずく。
「それでいい。震える手を隠して突き進む者より、震えながらも前を見据える者のほうが、よほど強い」
その言葉に、アリアの胸の奥がじんわりと熱くなる。
彼女はもう一度、炎を練った。
今度は小さく、静かに。両手で包むように炎を灯し――そのまま、父に向かって一歩踏み出す。
「行きます……!」
夜の庭に、アリアの炎が再び舞った。
小さな灯火がやがて弧を描き、父に届く寸前でふわりと弾かれる。
だが先ほどまでの暴走とは違い、炎は散らずに空に昇り、星のように瞬いた。
「……今のは、悪くないな」
「ほんと?」
「ああ。お前の炎は、少しずつだが……“守る力”に変わりつつある」
父の静かな褒め言葉に、アリアは思わず顔をほころばせる。
その瞬間、夜風が二人の間を吹き抜け、灯火がくるくると回った。
稽古の第二段階は、父アークがほんの少しだけ本気を出した瞬間から始まった。
「アリア、次は避けろ」
そう言うや否や、アークの足元で黒い影がゆらめいた。
次の瞬間、空気が一瞬重くなる。魔王特有の圧――それだけで、夜の庭がひやりと冷えたように感じられる。
「――っ!」
アリアは条件反射で横に飛んだ。
直後、彼女が立っていた場所の芝生が、魔力の余波でふわりとめくれあがる。
「父様……今の、当たったら……!」
「怪我はしないように調整してある。だが、心は怯えるな」
アークの低い声に、アリアの背筋が震えた。
恐怖と興奮が入り混じる――だが、この緊張感こそが本物の稽古なのだ。
アリアは再び両手に炎を灯す。
今度は小さな火球をいくつも生み出し、夜空に浮かぶ星のように散らす。
「……ほう、制御を学んだな」
「父様に、負けたくないもん!」
その瞬間、火球が一斉に走る。
小さな彗星の群れが父に向かい、アークは軽やかにステップでかわし、手のひらで魔力の風を起こして炎を散らす。
散った炎は夜空に舞い上がり、まるで星が流れるように煌めいた。
「いい動きだ。だが――力みすぎだぞ」
低く諭されると同時に、アークの影が揺れ、次の瞬間、背後に回られていた。
「っ……!」
肩越しに振り返ったときには、すでに父の指先が軽くアリアの額に触れていた。
その軽いタッチだけで、全身がびくりと震える。
「はい、一本」
「うぅ……また負けたぁ……」
アリアは地面に座り込んでしまった。
しかし、悔しさの奥に、不思議な満足感があった。
父に本気で向き合い、全力を尽くして負ける――それは、どこか心地よい敗北でもある。
稽古はさらに続いた。
アークは時折、実戦さながらの動きで間合いを詰め、アリアは必死に炎で道を作る。
踏み込み、回避、短い呼吸。夜の庭に、二人の足音と炎の音が繰り返し響く。
「はぁっ……はぁっ……!」
「もう限界か?」
「まだ……やる……っ!」
頬に汗を伝わせながらも、アリアは立ち上がる。
燃えるような瞳に映るのは、ただひとりの父の背中。
そしてついに、炎が彼女の意思に応える瞬間が訪れた。
彼女の背後に、羽のような炎の軌跡がふわりと浮かんだのだ。
「……これは」
「父様、見て……! 私、飛べそう……!」
炎の羽は実際に飛ぶほどの力はない。
けれどそれは、アリアの魔力が心と一体になった証――まるで彼女自身の“誓いの形”だった。
アークは静かに頷く。
「よくやった、アリア。今のお前の炎は、もう破壊の衝動だけじゃない。
守りたい心と、進みたい願いが宿っている」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
アリアは静かに両手を握りしめた。
「……私、決めた。
この炎は、誰かを守るために燃やす。壊すんじゃなくて、照らすために」
夜風が吹き、炎の羽がふわりと揺れる。
それは小さな灯火だったが、確かに未来を照らす温もりを持っていた。
稽古を終えて、アークはアリアの頭をそっと撫でた。
「その炎は、お前の誇りだ。忘れるな」
「うん……父様、ありがとう」
アリアは微笑み、夜空を仰ぐ。
星々の間を、炎の余韻がゆらゆらと漂っていた。
――この夜から始まった父娘の稽古は、やがて彼女の運命を変える“焔の誓い”へと繋がっていくのだった。




