209話 小さな和解と芽生え
学園の朝は、昨日までとは少し違って見えた。
アリアは食堂の窓から差し込む朝日を見つめながら、深呼吸をした。
(……泣いて、母様に抱きしめられて……ちょっとだけ、軽くなった)
(でも、ユリアと……ちゃんと話せるかな)
テーブルの端でパンをかじっていたルシアが、妹の顔を覗き込む。
「アリア、顔つき変わったな。何か吹っ切れた?」
「……たぶん、ね」
「よかった。兄としては安心だ。昨日は、見ててハラハラしたぞ」
その言葉に、アリアは少しだけ笑った。
その笑顔は、食堂の向こうで偶然視線を向けたユリアの目にも映った。
だが彼は何も言わず、静かに視線を戻した。
午前の授業は魔法制御の実習だった。
中庭に設けられた訓練場で、学生たちが魔法の火花や風の渦を飛ばしている。
「アリア、今日は焦らずにね」
指導教官の声が飛ぶ。
「……はい!」
アリアは深呼吸し、両手を前に出す。
炎が、彼女の掌からふわりと現れる。
昨日までならすぐに形を失っていた炎は、今日は驚くほど素直に彼女の指先に収まった。
(母様が言ってた……“私の炎は、私の形で燃えていい”)
(誰かみたいになるんじゃなくて、私のままで――)
炎が小さな鳥の形になり、ひらひらと空を舞う。
周囲から歓声が上がった。
「おおっ、すごいじゃないかアリア!」
「きれい……」
だが、その輪の外で腕を組むユリアは、口元だけで小さく笑った。
「……やっと“自分の炎”になったか」
そのつぶやきは誰にも聞かれなかったが、彼の胸の奥にわずかな安堵が宿る。
昼休み。
アリアは勇気を出して、校舎裏の木陰で一人休んでいるユリアに近づいた。
風が髪を揺らし、葉の隙間から光がこぼれる。
「……ユリア」
「……なんだ、アリア」
振り返った彼の目は、相変わらず水のように冷静だ。
アリアは少しだけ口ごもり、拳を握った。
「昨日は……ありがとう。私、暴走しかけてたのに……止めてくれて」
「礼はいい。俺も、危うく巻き込まれるところだった」
「うっ……ごめんなさい……」
その素直な謝罪に、ユリアは一瞬だけ目を見開いた。
そして、ふっと小さく笑う。
「……お前、本当に火のやつだな。燃えて、泣いて、また立ち上がる」
「えっ、火のやつ……?」
「俺は水。冷めて、流れて、形を選ぶ。だから正反対なんだよ、俺たちは」
アリアはその言葉に思わず笑ってしまう。
「じゃあ、やっぱりライバルね。火と水。絶対に混ざらない」
「……でも、互いに消し合わなきゃ、いいバランスにもなるかもしれない」
ユリアの言葉に、胸の奥がちくりとした。
ただの友達じゃない何かを、感じてしまう。
(……あれ、これ……もしかして)
アリアはそっと目を逸らし、頬が熱くなるのを感じた。
その横でユリアも、視線を空に向けたまま小さく息を吐く。
(火の姫……俺の想定以上に、まっすぐだな)
午後の実習は、学園恒例の小規模演習だった。
班ごとに分かれ、校舎裏の森に設置された魔導標的を制圧・回収する。
今回はユリアとアリア、そして数名のクラスメイトが同じ班となった。
「……よ、よろしく……」
アリアは少しだけぎこちない声で挨拶する。
ユリアは淡々と頷いた。
「じゃあ、まずはルート確認だな。お前は前衛、俺は後衛で索敵と補助をする」
「う、うん……」
森に入ると、柔らかな土の匂いと、鳥のさえずりが耳に届く。
アリアは心臓の鼓動を感じながら、一歩ずつ前に進む。
ユリアの冷静な声が背後から飛ぶ。
「右前方、魔導標的ひとつ。……距離十五」
「わかった!」
アリアは素早く炎を放ち、標的を焼き払う。
その正確さにユリアは目を細めた。
「昨日までよりずっと安定してるな」
「……母様に言われたの。“自分の灯でいい”って」
「……なるほど、あの王妃の言葉か。なら大丈夫だな」
順調に標的を制圧していたその時――。
「きゃっ……!」
後衛にいた女子生徒が、足を滑らせて斜面に落ちそうになった。
その先は浅いが小川が流れている。
「危ない!」
アリアは反射的に飛び込んだ。
咄嗟に炎を纏わせた足で滑りを止め、彼女の手を掴む。
だが体勢が崩れ、二人ともバランスを失いかける。
「アリア、動くな!」
ユリアの声が響いた瞬間、冷たい水の壁が斜面を覆った。
水流がまるでクッションのように二人を支え、ゆっくりと斜面の下へ滑り落とす。
泥も傷もなく、二人は無事に着地した。
「……はぁ、助かった……」
「お前、無茶するなよ」
ユリアが手を差し出し、アリアを引き上げる。
その手の温もりに、胸がどきりとした。
(あ……これ……また、胸が熱い……)
救出劇の後、班は無事に演習を終えた。
戻る道すがら、クラスメイトが口々に二人を褒める。
「アリアの反応、すごかった!」
「ユリアの水魔法もかっこよかったよ!」
アリアは頬を赤くしながら笑う。
その横でユリアは肩をすくめるだけだったが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「……なぁ、ユリア」
「なんだ」
「私、まだまだ未熟だけど……もうちょっとだけ、隣で頑張ってみたい」
「……ライバルとしてか?」
「うん……それも、友達としても」
ユリアは少しだけ目を伏せ、静かに答えた。
「……なら、俺も水くらいは貸してやるよ。火を消さない程度にな」
その言葉に、アリアは思わず笑った。
胸の奥に灯った小さな炎が、今度は温かく優しく燃えているのを感じた。
夕暮れ。
学園の鐘が鳴り、影が長く伸びる。
アリアは窓越しに西の空を見つめ、そっと呟く。
「……少しだけ、わかったかも。私の炎の燃やし方」
その横で、ユリアも同じ空を見上げていた。
ふたりの影は交わらぬまま、けれど確かに、少しだけ近づいていた。
演習を終え、夕暮れの学園。
オレンジ色の光が、長い回廊の床石を染めていた。
アリアは、静かにその廊下を歩いていた。
――胸の奥が、ほんのり温かい。
火ではない。けれど、確かに燃えているような気がする。
「……ふふっ」
思わず、笑みがこぼれる。
今日、無意識に飛び込んだあの瞬間。
クラスメイトを支えた自分の手に、ユリアの水が寄り添った瞬間。
気づけば、自分はひとりじゃなかった。
「……あの子、水みたいな人だな」
すぐ隣を歩く気配に振り向くと、そこにユリアがいた。
彼は窓越しに夕日を見ていた。
「お前、まだ笑ってるのか」
「えっ、わ、私……笑ってた?」
「うん。子どもみたいに」
からかうでもなく、ただ事実を告げるその声。
アリアは耳まで赤くなった。
「……でも、いい笑顔だったぞ」
「~~っ!」
言葉が詰まり、アリアは前を向く。
夕焼けの光が、ほんのり熱を帯びて瞳に反射した。
――悔しいけれど、嬉しい。
そして、少しだけくすぐったい。
ユリアは足を止めず、ふと呟く。
「なぁ、アリア」
「な、なに?」
「今日みたいに無茶するなよ。でも……お前のそういう火は、嫌いじゃない」
アリアは胸を押さえ、こぼれる笑みを抑えられなかった。
この温もりを、いつかもっと大きく燃やせるように――。




