208話 「炎の暴走と小さな事件」
魔法学園の訓練場に、乾いた風が吹き抜けた。
午後の日差しはすでに傾きかけ、砂塵の匂いが漂っている。
「今日の演習は模擬市街戦だ。魔力制御と連携が試されるぞ」
教官の号令に、各班が散開していく。
アリアは自分の手をぎゅっと握った。
(……見てて、ユリア。今度こそ……!)
先日の模擬戦で、彼女は完敗した。
悔し涙をこらえながら帰った夜、ミカに胸を打ち明けたあの夜――
“自分の火”を見つめると決めたのだ。
だが、胸の奥の熱は、まだ未熟な焦りと嫉妬を孕んでいた。
目の前で、ユリアが別の女子生徒に笑いかける光景がちらりと視界に入るだけで、心がざわめく。
(……なんで、あんなに自然に笑うのよ)
(私、いつも必死で、泥だらけになって……!)
その瞬間、彼女の魔力は不安定に脈打った。
訓練場の向こうで、赤い光が瞬いた。
ユリアはそれを見て、ほんの少しだけ眉をひそめた。
(アリア……今日、やけに魔力が荒い)
(焦ってるのか? それとも……)
周囲の生徒たちは気づいていない。
だが、彼だけは知っていた。
炎の揺らぎは、感情そのものだということを。
アリアは市街戦用の模擬路地を駆け抜ける。
息が荒い。
胸が熱い。
心の奥から、言葉にならない衝動が湧き上がってくる。
「私だって……私だって、できるんだからっ!」
叫んだ瞬間、魔力が暴発した。
手から迸る火花が石壁に当たり、模擬建築の木製バルコニーに火がつく。
「――あっ……!」
次の瞬間、煙と悲鳴が立ち上った。
近くにいた一年生の生徒が、咳き込みながら後ずさる。
焦げた匂いが鼻を刺した。
ユリアは即座に駆け出す。
(まずい……あの火、アリアだ!)
脳裏をよぎるのは、赤い髪の少女の顔。
強がりで、まっすぐで、危ういほどに――熱い。
アリアは立ち尽くした。
火は思った以上に速く広がっていく。
胸の奥で、悔しさと恐怖が絡まり合う。
(なんで……なんで、こんなことに……!)
そのとき、後ろから強い腕が伸びてきた。
「危ない、下がれ!」
ユリアだった。
彼の水属性魔法が一瞬で水の幕を作り、炎を包み込む。
じゅう、と音を立てて火が消えていく。
「……助かった、ありがとう……」
「礼は後でいい。まだ煙が残ってる、みんなを避難させろ!」
その声に、アリアの胸が熱くなる。
それは敗北感でもあり、救われた安堵でもあった。
火は、ユリアの水魔法によってあっという間に鎮まった。
模擬建物のバルコニーは黒く煤け、わずかに煙が立ちのぼっている。
だが、怪我人は出なかった。咳き込んだ生徒も、保健室へ運ばれる頃には笑顔を取り戻していた。
「……ふう、間一髪だったな」
ユリアは額の汗をぬぐい、深く息を吐いた。
彼の横で、アリアは肩を震わせたまま立ち尽くしている。
「わ、私……また……」
「……落ち着け、アリア。誰も大きな怪我はしてない」
「でも……でも……っ!」
彼女は唇を噛みしめた。
涙が、ぽろりと頬を伝う。
悔しさ、恐怖、そして――ほんの少しの安堵が入り混じる涙。
ユリアは、言葉に詰まった。
その泣き顔を見て、胸の奥がじわりと熱くなる。
(……どうして、放っておけないんだろうな)
気づけば、彼はそっとアリアの肩に手を置いていた。
「大丈夫だ。……お前は、まだやり直せる」
「……ユリア……」
その瞬間、胸の奥に小さな光が灯ったように感じた。
けれど、それが初恋なのか、憧れなのか、アリア自身にもまだわからない。
ほどなくして教官が駆けつけ、事情を確認した。
幸い、魔法障壁とユリアの素早い対応のおかげで被害は最小限にとどまった。
「アリア、今回は厳重注意だが……己の力を制御することを学べ」
「……はい……」
その声に、アリアは項垂れる。
横でユリアがさりげなく一歩前に出る。
「先生、彼女は……反省しています。今日のことは、僕が最後まで監督しますから」
その言葉に、教官はうなずき、短くため息をついた。
「まったく……お前たちは、火と水のコンビだな」
その場の空気が、少しだけ和んだ。
夕暮れの道を、アリアはとぼとぼと歩いた。
背後から聞こえる生徒たちのざわめきが、妙に遠く感じる。
(私……また、暴走した……)
(こんなんじゃ、母様みたいに誰かを支えるなんて、夢のまた夢……)
悔し涙がにじむ。
けれど、頭の片隅には、さっきの温もりが残っていた。
ユリアが肩に置いた手。
守られた安堵。
それが、胸の奥でじんわりと熱を持つ。
家に帰れば、きっと母が待っている。
叱るのか、慰めるのか――その両方だろう。
でも今はまだ、ほんの少しだけ、その温もりに浸っていたかった。
夕焼けに照らされた学園の屋上で、ユリアは一人、風に吹かれていた。
(アリア……また泣いてたな)
(強くて、負けず嫌いで、でも……泣き虫だ)
思わず、口元がほころぶ。
なぜか、胸の奥がむずがゆい。
次に彼女と顔を合わせたとき、どんな顔をすればいいのか――自分でもわからなかった。
こうして、小さな暴走と小さな救出劇は幕を閉じた。
しかし、アリアの心に宿った火は、まだ静かに揺れている。
それは破壊の炎ではなく、次の成長へとつながる“灯火”の予兆だった。
城に戻ったアリアは、いつもよりずっと静かに廊下を歩いていた。
靴音が響くたび、胸の奥がちくりと痛む。
(あぁ……また、迷惑かけちゃった)
(母様、怒ってるかな……)
扉の前で、しばらく立ちすくむ。
中からは、静かな紙の音と、インクの香りが漂ってきた。
深呼吸をして、そっと扉を開く。
「……アリア?」
机に向かっていたミカが、ゆっくりと振り向いた。
灯りの下の瞳は、驚きと、ほんの少しの安堵に揺れている。
「母様……ただいま……」
「おかえりなさい。――今日は、大変な一日だったわね」
優しい声。それなのに、胸の奥が痛い。
アリアは思わず俯き、唇を噛んだ。
「……私……また、失敗したの」
「ええ、聞いたわ。火の暴走……でも、ユリアくんが止めてくれたそうね」
ミカはそっと立ち上がり、アリアの前にしゃがみ込んだ。
目線が同じ高さになると、急に涙がこぼれそうになる。
「アリア、顔を見せて」
「……やだ……」
「大丈夫。叱るためじゃないわ。あなたがどんな顔をしてるのか、ちゃんと見たいだけ」
その言葉に、アリアはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳と、悔しさに歪んだ表情。
ミカはその頬を、そっと包み込む。
「……怖かった?」
「うん……怖かった……でも、それ以上に……悔しかった……っ」
「悔しかったのは、誰に負けたから?」
「……自分に、だと思う……」
その答えに、ミカは小さく微笑んだ。
指先で涙をぬぐいながら、静かに語る。
「アリア。あなたは、強くなろうとしすぎるのね」
「だって……母様みたいになりたいから」
「私みたいに?」
ミカは少しだけ、困ったように笑った。
「母様はね、強く見えるかもしれないけど……たくさんの人に支えられてるのよ。
お父様も、ルシアも、アレイドも……そして、あなたもね」
「私が……母様を、支えてる……?」
「ええ。あなたの笑顔や努力が、私の力になるの。
でも――あなたが無理をして泣いてしまったら、私の心も泣いてしまうわ」
その言葉に、アリアははっと息を呑んだ。
胸に熱いものが込み上げる。
「……じゃあ、私……私のままでいいの……?」
「もちろん。あなたは、あなたの光でいていいの」
「母様みたいじゃなくても……?」
「うん。アリアは、アリアでしかないの。
あなたの炎は、誰かを守るために、あなたの形で燃えていいのよ」
その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
アリアは、母の胸に飛び込んだ。
「……うわぁぁぁぁんっ……!」
「よしよし……よく頑張ったわね、アリア」
ミカは、娘の小さな背を優しく撫で続けた。
窓の外では、夜空に星がひとつ瞬いている。
その光は、アリアの心に生まれた小さな“灯火”のように、静かに輝いていた。




