206話 初恋は唐突に ―焦がれる鼓動―
学園の朝は、いつも少しだけ慌ただしい。
鐘の音が校舎に響き渡ると、石畳の中庭を駆け抜ける足音が重なり、色とりどりの制服の生徒たちがあふれ出す。王族も平民も、魔法士も剣士も、ここでは皆「学生」であることに変わりはなかった。
アリア・エストレーラは、窓から差し込む光に目を細めながら廊下を歩いていた。
栗色の髪を高く結い、制服のスカートが少しひらりと揺れるたびに、足取りは軽くなる。けれどその胸の奥は――まだ昨日の模擬戦の余韻を引きずっていた。
(昨日……私は、負けた)
魔力の炎を纏った全力の突進。それをあっさり受け流し、最後には剣の柄で肩を押さえられた。
その瞬間に目が合った相手の瞳を、今も忘れられない。
「……ユリア」
小さく名前を呟くと、頬が熱くなる。
水色の瞳、しなやかな剣筋、氷のように冷静で、それでいて時折見せる微笑みは――まるで透明な水面のきらめきみたいだった。
悔しい、勝ちたい、でも同時に……心のどこかで目を離したくない。
教室に入ると、数人の友人が集まってきた。
「アリア、昨日は惜しかったねぇ。最後の一撃、カッコよかったよ!」
「でもユリアってすごいよねぇ……全然焦ってなかったし」
褒められても、アリアは素直に笑えなかった。
席につくと、机に肘をつきながら小さくつぶやく。
「……あの人、なんであんなに落ち着いてるんだろう」
「え、誰のこと?」友人が首をかしげる。
「ユリア……」
その名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
初めて感じる、奇妙な熱。今まで戦いで燃えてきた炎とは違う、くすぐったくて息苦しいような感覚。
午前の授業は魔術理論。教授が黒板に魔法陣の展開式を書きながら淡々と説明していく。
だが、アリアの視線はつい窓際の列――ユリアの背中を追ってしまう。
真剣な横顔、筆を持つ指先、長いまつげの影。
(なんで……見てるだけで、ドキドキするの?)
チャイムが鳴ると、ユリアはさっとノートを閉じて立ち上がった。
その動作の一つ一つが、なぜか眩しく見える。
アリアは慌てて視線をそらし、友人に話しかけられたふりをする。
「アリア、次の授業、一緒に行こー」
「う、うん……」
けれど心はそわそわして落ち着かない。
中庭を歩くユリアの後ろ姿を、つい目で追ってしまう。
そのたびに胸が熱くなり、同時に昨日の敗北がよみがえる。
(私、あの人に……勝ちたいだけじゃないんだ)
勝ちたい、認められたい、でもそれだけじゃない。
もっと近づきたい。目を見て笑ってみたい。
そんな自分の気持ちに気づくたび、頬が赤くなる。
昼休み、食堂のテラス席でパンをかじりながら、アリアはため息をついた。
「はぁ……」
「どうしたの、アリア? 食欲ないの?」
「ううん……あるけど……なんか、胸が落ち着かなくて」
友人がにやりと笑った。
「もしかして、恋?」
「こ、恋!? ち、違うっ! ……たぶん……」
否定しかけて、言葉が尻すぼみになる。
そのとき、ふいにテラスの向こうで笑い声が聞こえた。
視線を向ければ、ユリアが別のグループの生徒に囲まれて談笑している。
その笑顔に、胸がまたぎゅっと締め付けられた。
(……なんなの、これ)
悔しい気持ちとも違う。嫉妬とも違う。
でも、確かに胸を焦がす何かが、そこにあった。
放課後の演習場は、夕日で赤く染まっていた。
学園の広い訓練場には、数組の生徒が残って自主訓練をしている。魔法陣が光を帯び、風が巻き起こり、木剣がぶつかる乾いた音が響く。
アリアは一人、火の魔法陣を展開していた。
掌の上に浮かぶ炎は、模擬戦で使った時よりも小さい。それでも心臓の鼓動に合わせて、炎はゆらゆらと揺れる。
「……全然、集中できない……」
つぶやいた瞬間、背後から静かな声がした。
「その炎、少し不安定ですね」
「っ!?」
振り返ると、そこにいたのはユリアだった。
夕日の光に透ける銀色の髪。冷たくも優しい水色の瞳。
アリアの心臓は、炎よりも先に跳ねた。
「ゆ、ユリア……っ、どうしてここに……」
「いつもここで訓練してますから。あなたも自主練習?」
「う、うん……まあ、その……」
言葉が続かない。
悔しいのに、嬉しいのに、心がくすぐったくてどうしようもない。
ユリアはアリアの手元の炎をじっと見つめ、ふっと笑った。
「昨日より、少しだけ優しい炎ですね」
「え……優しい?」
「戦うための炎じゃなくて……誰かに見せる炎みたいだって思いました」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
アリアは視線をそらし、炎を消すと、ぎこちなく笑った。
「……あんたに負けっぱなしじゃいられないから、もっと強くならなきゃって思っただけ」
「そういう顔、嫌いじゃないですよ」
ユリアがわずかに目を細めた瞬間、夕日の光と重なって彼の輪郭が少し滲んで見えた。
アリアは思わず後ずさり、火照る頬を手で隠す。
(な、なにこれ……心臓がうるさい……!)
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、ユリアの低く落ち着いた声だった。
「……また模擬戦、やりましょうか。次は、本気のあなたと戦ってみたい」
「……っ、言ったな……絶対負けないんだから!」
精一杯の強がりを返すと、ユリアは小さくうなずいて去っていった。
その背中を、アリアはしばらく動けずに見送るしかなかった。
帰り道。
学園から魔王城まで続く石畳の道を、アリアは一人で歩いていた。
夕焼けはすでに暮れ、街灯の灯りが石畳に淡く映っている。
城下の人々の声が遠くから聞こえてくるのに、世界はやけに静かだった。
――胸の奥は、まだ熱い。
頬に手を当てても、熱は冷めない。
胸に手を当てると、鼓動は小さく跳ね続けている。
(……これが、恋なのかな)
そう思った瞬間、歩みが止まった。
昨日まで、勝ちたい、認められたい、負けたくない――それだけだった。
でも今は違う。
(あの人に、もっと見てほしい……笑ってほしい……)
思えば初めてだった。
炎の力で戦うことしか考えてこなかった自分が、力ではどうにもできない気持ちに振り回されるなんて。
「……ユリア……」
名前を小さく呼ぶと、夜風が髪を揺らした。
胸の奥に生まれた小さな炎は、戦いの炎ではなく、もっと柔らかく、暖かい光だった。
その夜。
アリアは自室のベッドに横になり、天井を見上げていた。
部屋の明かりは落とし、カーテンの隙間から月の光だけが差し込んでいる。
(明日、また会えるかな……)
胸がまた高鳴る。
この気持ちの名前を、アリアはようやく理解していた。
――初恋。
それは炎のように熱く、けれど静かに灯る、小さな灯火だった。




