200話 静謐なる翼
戦術演習からの帰還は、思いのほか静かなものだった。
勝利も、名誉も、歓声もあった。 だが、それらはすべて演習地に置いてきたように感じられた。
それはアレイドにとって、ごく自然なことだった。
「……お帰りなさいませ、アレイド様」
執務棟の一角、戦術研究室の扉を開けると、研究補佐のエリナが軽く頭を下げる。彼女の手には整理された報告書の束。
「提出物はすでに整理済みです。報告はすべて中央戦術本部と各国代表団へ提出済み」
「ありがとう。君の迅速な対応に、いつも助けられてる」
アレイドは小さく笑い、書類を受け取る。その手元に、演習の詳細な行動記録が綴られていた。
ルシアの戦術判断と統率力。各部隊の連携、異常事態への即応。そして——それを支えた、名もなき支援者の演算補助と経路解析。
(名もなき、か)
自嘲のように口元が歪む。
だがすぐに、アレイドはその書類を静かに机に置いた。
彼の名は、最終報告に小さく記されていた。中央評議会が提示した、今後の推薦リスト。
“アレイド・エストレーラ:戦術補佐官候補”
それは“表舞台”への入り口を意味していた。
しかし、アレイドの足取りはいつもどおり静かで、彼自身の内心にも、昂るような感情はなかった。
けれど——確かな変化は、あった。
机に座り、魔導端末を起動しながら、アレイドはふと胸元を見下ろす。
そこには、小さなバッジが留められていた。
兄・ルシアが演習最終日、無言で手渡してくれたものだった。
王族の象徴たる金糸の双翼。
本来は将軍級の紋章だ。
「俺が前を行く。お前が背を守れ。それで、俺たちは“完全”だ」
ルシアの言葉は、短く、力強かった。
あの時、アレイドは初めて、兄と正面から視線を交わした。
血縁だけではない。思想でも、才能でも違う二人。
だが、同じ王族として、異なる道を選びながらも並び立つということ。
(僕には……彼のような光はない)
だが。
(その光が翳らぬよう、風になれる)
その日から、アレイドは自分の魔術演算に、ひとつの新しい呼称を添えるようになった。
“静謐なる翼”
それは、彼自身を示す象徴だった。
喧騒から離れた研究室。 だが、そこから生まれる情報、判断、支援の数々は、戦場や政治の舞台へと広がっていく。
誰かの指揮の裏で、確実に未来を動かす力。
(影じゃない。もう、隠れてはいない)
アレイドは立ち上がり、窓の外を見つめた。
王都の空に、陽は沈みかけていた。
遠く、演習から帰還した部隊の行進音が聞こえる。
その先頭には、兄ルシア。
その後方には、彼らの母であり、魔王の秘書──ミカの姿もあった。
凛とした黒髪を風に揺らし、的確な視線で整列を見守るミカ。 そして、堂々と行進する兄の背中。
アレイドはそっと微笑む。
「たとえ表舞台に立たずとも、この翼は、彼らを未来へ運ぶ風になれる——そう信じている」
自らの役割に、もはや迷いはなかった。
王の血を継ぎながらも、王ではなく。 戦場に立ちながらも、指揮官ではない。
だがそれこそが、アレイド・エストレーラという存在の、本質だった。
“静謐なる翼”
それは、誰かの声を遠くまで届ける風。 光を陰りなく導く、空の流れ。
その名もなき力が、やがて世界を動かす力へと繋がることを、まだ彼自身は知らない。
──だが、それは確かに始まっていた。




