187話 才能という檻
静寂——それは、アレイドにとって“日常”だった。
魔王城の西庭にある、古の噴水。今は使われていないその場所に、アレイドはひとり佇んでいた。小さなノートと、黒い羽根ペン。膝の上でそれを広げると、彼は誰にも見せたことのない線画を静かに描きはじめる。
——風にたなびく旗。城の尖塔。曇りかけた空。
それらを描く手は、驚くほど正確で繊細だった。
「……ここは、もう少し明暗を強くして……」
誰に聞かせるでもなく呟くその声は、彼の中だけに響く。まるで、絵筆だけが彼の心を知っているかのように。
彼の才能は、幼い頃から周囲を驚かせてきた。
魔術も、戦術も、歴史も、語学も、すべて“習えばすぐできる”。師たちは目を見張り、貴族たちは噂した。「次代の魔王家で、最も天才的なのは次男アレイド様だ」と。
けれど。
その称賛は、やがてアレイドにとって「枷」となった。
「……すごいですね」「あなたなら、何だってできる」
それは祝福の言葉ではなく、彼を“檻”に閉じ込める呪文のようだった。
他人と違うということ。わかってしまうということ。それが“孤独”だと気づいたのは、兄ルシアの背を見上げるようになった頃からだった。
「アレイド! いたーっ!」
庭の向こうから、少女の声がした。
アリアだった。髪を跳ねさせ、ドレスの裾を泥だらけにして走ってくる。手には、ちぎれたクッションと、おそらく怒られて逃げてきた跡があった。
「……また何か壊したの?」
「ちがうもーん、ルシア兄様の部屋で“転んだだけ”!」
「“転んだだけ”でベッドの支柱が折れるとは思えないけど……」
「アレイドは何してたの? おえかき? 見せて見せて!」
彼女は当然のように隣に座り、ノートをのぞき込んできた。
アレイドは小さくため息をつきながらも、ノートを閉じなかった。
「……別に。誰にも見せるつもりはないけど」
「うわ……これ、すっごい! 本物の城じゃん! すごいね、アレイド!」
「……やめて、そういう言い方」
「え?」
アレイドの声は、思った以上に鋭く響いた。
アリアは目を丸くし、少し距離を取る。だが、アレイドはすぐに気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん。君に言ったわけじゃない。ただ……“すごい”って言葉、最近ちょっと……うるさいんだ」
「……そっか」
アリアは静かにうなずいた。
そして、ほんの少しだけ——いつもの無邪気さを脱ぎ捨てたような顔で言った。
「アレイド。ねえ、“すごい”って、嫌なこと?」
「嫌っていうか……なんか、“決めつけ”みたいに感じる時があるんだ」
アレイドは、ぽつぽつと話し出す。
「“できるからすごい”。“できるんだからやればいい”。“できるなら、きっと好きなんだろう”って……誰も、“僕がどうしたいか”は聞かない」
「……うん」
「好きなことがあっても、それが“できて当然”と思われると……なんか、それだけで価値がなくなるみたいな気がして。僕の絵は、“僕の絵”じゃなくなる」
「アレイド……」
「僕は、ただ“僕”でいたいだけなのに、周りは僕を“期待”とか“天才”とか“魔王の息子”っていう枠に入れてくる。それが……怖いんだよ」
アレイドの言葉は、しだいに震えていた。
その手を、アリアがそっと握った。
「……じゃあ、アレイドの“好き”を、私が“好き”って言ってあげる。ね?」
アレイドは、目を見開いた。
「他の人が“すごい”って言っても、私は“アレイドの絵、好き”って言うよ。だから、やめないで。誰のためでもない、アレイドのために描いて」
——それは、彼にとって、初めての“肯定”だった。
夜が落ち、魔王城の灯が静かに灯る頃。食事を終えたアレイドは、自室に戻らずに、母ミカの私室の前に立っていた。
扉の前で一呼吸。
手が震える。けれど、自分の中に芽生えた疑問が、ただの独白では終わらせてくれなかった。
「……入ってもいい?」
「もちろん。アレイド?」
ミカの柔らかな声が返り、扉が静かに開く。部屋の中は書類の山と、夜香の匂い。そしてロウソクの揺らめきに照らされた母の笑顔。
「どうしたの?」
アレイドは少しだけ躊躇いながら、部屋の片隅のソファに腰を下ろした。母はそれに気づき、そっと対面に座る。
「……ねえ、母上。僕、“何かを好き”って言っても……いいのかな?」
その問いに、ミカは目を細めた。咎めるでも、驚くでもなく。まるで、ずっとその問いが訪れるのを待っていたかのように。
「もちろんよ、アレイド。どうして、そんなことを思ったの?」
「……僕、何でもできるって、よく言われる。でも、何でもできるってことは、逆に“何をやっても自分じゃない”気がする。たとえば、絵を描いても、“上手いね”って言われるだけで、“アレイドの絵だね”っては言われない」
ミカは黙って頷く。
「“できる”って、“好き”と違うと思う。なのに、皆はそこをごっちゃにする。“できるんだから、やればいい”。“できるんだから、好きに違いない”。でも僕、時々……ただ“普通”になりたくなる」
「普通に、って?」
「何かを、下手でもいいから夢中になりたい。“好き”って叫びたくなるほど……そんな気持ちを、感じてみたい」
ミカは立ち上がり、アレイドの隣に座った。
そして、静かにその背中に手を置く。
「アレイド、覚えてる? あなたがまだ小さい頃、寝室のカーテンを丸ごと切って、マントを作ってたこと」
「……うん。お芝居ごっこで、“王子”の役をしたかったんだ」
「そう。あれ、裁縫係たちには大変だったけど……あなたの目がキラキラしてた。あの時の“好き”は、覚えてる?」
「……なんとなく。でも、いつからか、そういう気持ち、どこかに隠しちゃってたかも」
「才能があるって、とても素敵なこと。でもそれが“足枷”になるとしたら——才能に縛られてるのは、あなた自身じゃなくて、周りの価値観なの」
アレイドの視線が母に向く。
「誰かの“すごい”より、あなたの“好き”のほうがずっと大事。私はずっと、あなたが自分の気持ちで何かを選ぶ日を、待ってるの」
「……“選んでもいい”んだ」
「ええ。才能にふさわしい道じゃなくて、アレイド自身が“歩きたい道”を、ね」
アレイドは黙って頷いた。心の奥にひとつ、柔らかな火がともる感覚。
ミカはさらに言葉を続けた。
「……お父様も、きっと同じ気持ちだと思う」
「……父上が?」
「ええ。アレイド、行ってきなさい。あなたの気持ち、今ならきっと伝わる」
執務室は、夜もそのままの形で在った。書類の山、窓の外に浮かぶ月、そして……机に腰掛け、ペンを走らせていたアーク。
「……来たか、アレイド」
目も合わせずに告げられた一言に、アレイドは小さく笑った。
「いつも、わかってるんだね。僕が来るって」
「父親だからな。特にお前の足音は、ずいぶん特徴がある」
「……それ、褒めてる?」
「事実を述べただけだ」
アークはペンを置き、椅子を半分こちらに向けた。
「で? 何を話しに来た?」
「……僕、自分の“感情”がよくわからないことがあるんだ。何かを好きなのか、ただ得意なだけなのか……」
「……ふむ」
「でも、それでもいいのかな。“好き”と口にしていいのかなって、思いはじめてる」
アークは目を細める。
「アレイド。好きなことに理由はいるか?」
「……わからない」
「なら、教えてやろう。“好き”には理由が要らない。それが“才能”かどうかは関係ない。ただ、心が震えるかどうか。それだけだ」
「心が、震える……」
「俺が魔王の道を選んだのもな、“民を守る”という正義感ではなかった。ただ、目の前にある“混沌”に立ち向かうことが……おもしろかったんだ」
「……意外だね」
「だろう? だがそれも、真実だ」
アレイドは、机の上にそっと自分の絵のノートを置いた。
「僕、これが——好きみたいだ」
アークは無言でページをめくった。やがて一枚のページで手を止める。風に揺れる旗の下に、小さく描かれた人影——兄と妹、そしてその隣に立つ“もうひとりの少年”。
「……悪くない。これは、お前の“世界”だな」
「父上……」
「お前は、“天才”なんかじゃない。ただの……俺の、ミカの、大切な子供だ」
アレイドは、涙がこぼれるのを止められなかった。
その夜、アレイドは久々に“夢”を見た。
広い草原の中で、彼は筆を手に立っている。空を見上げると、兄と妹が笑いながら走り、ミカとアークが穏やかな目でこちらを見ている。
その中心で——アレイド自身が、ようやく微笑んでいた。




