186話 静かなる少年、すべてを見ていた
魔王城の西側、図書塔の最上階にある一室——そこが、アレイドの居場所だった。日が昇る前に目覚め、朝の帳が消える頃にはもう本を開いている。王子でありながら、護衛すら付けず一人、誰の目にも留まらぬようにその時間を過ごしていた。
書棚に並ぶのは古の戦略書、外交の記録、異種族間の条約集、そして膨大な魔術理論。まだ十歳に満たぬその手は、迷いなくそれらをめくり、時折ペンを走らせては、淡々と知を積み重ねていく。
だが、彼の目は静かだった。まるで心に影を宿したまま、世界を一歩引いた場所から見つめているかのように。
「……ルシア兄様は、今日も朝から民の学校に?」
塔の窓から遠くを眺めながら、アレイドは呟いた。彼の視線の先では、広場で子供たちと話すルシアの姿が小さく見える。
その背中は堂々としていて、誰からも愛されていた。優しさと知性を兼ね備え、民に寄り添い、決して人を見下さない兄——アレイドは、そんな兄を尊敬していた。けれど。
「……僕には、あれは眩しすぎる」
その囁きには、わずかな嫉妬も、諦めも、そして——孤独も滲んでいた。
◇
「アリア姫、また訓練場を脱走されたようです」
「おいおい、今日は七人目だぞ、見失ったの」
「でも魔獣厩で寝てるのを発見しました!……なぜあそこに……」
廊下を歩けば、兵たちの慌ただしい声が耳に入ってくる。末妹のアリアは、誰よりも活発で、誰よりも奔放だった。城中の者を振り回しながらも、どこか憎めない天性の魅力を持っていた。
そんな妹を、父アークは苦笑しつつも抱き上げ、母ミカは根気強く育てていた。家族の笑い声がいつも彼女を中心に響く。
そして兄ルシアは——妹の暴走を止めるのも、またその被害をかばうのも、すべて引き受けてしまう。まるで世界の調停者のように。
「……僕は、どこにも“必要”とされていないのかもしれない」
アレイドの心に、そんな声が生まれたのは、きっともっと前からだった。
全てが分かってしまう。誰が何を考え、何を求めているか。誰が嘘をついていて、誰が本当は傷ついているのか。周囲の気配、仕草、表情、息遣い、魔力のわずかな揺らぎすら、アレイドには“見えてしまう”。
——父は、僕に武の道を継がせたいと思っている。
——母は、僕を外交官のように育てたいと考えている。
——兄は、僕の“冷静さ”にどこか距離を感じている。
——妹は、僕にしか懐いてくれないが……それはどこか「安全地帯」だからだ。
見える。すべてが。
だからこそ、アレイドは疲れていた。生まれつきの才能は、時に彼を誰よりも「遠い場所」に連れて行ってしまう。優しさも、無関心も、怒りも、嫉妬も——誰かの感情が、洪水のように押し寄せてきて、彼はそれを一人、抱え込んでいた。
◇
「アレイド。今日も、一人だったの?」
その声に、アレイドはふと顔を上げた。母——ミカが、図書塔の入口に立っていた。
「……別に。いつも通り、勉強してただけ」
彼は本を閉じ、机の上を整える。無表情にも見えるその顔に、ミカはそっと微笑んだ。
「ねえ、たまには執務室に来ない? お父様と少し話してみたら?」
「……用がないよ。僕は、兄様やアリアみたいに、誰かと積極的に話したいとは思わないし」
アレイドの言葉には刺々しさはない。けれど、どこか寂しげだった。
ミカは静かに部屋に入り、彼の隣に腰を下ろす。
「……アレイド。あなた、全部“見えて”しまうのね」
「……」
「気づいていたわ。あなたは、生まれた時から、“他人の痛み”を背負ってきた子。まだ幼かったのに、あの時……病室で倒れた護衛を、黙って背中で支えてたでしょう?」
ミカの声は、優しくて、けれどどこまでも強かった。
「“できること”が多いとね、人はつい、“やりたいこと”を見失うの。できるから、任される。できるから、期待される。でも、あなたの人生は、“誰かの期待”だけでできているわけじゃない」
「……」
「アレイド、あなたが“やりたい”ことは、何?」
少年の肩が、小さく震えた。
「わかんないよ……母上。僕には、“やりたい”ことがない。全部“できてしまう”だけで……気づいたら、皆が僕に期待するだけで……僕自身が、どこにもいないんだ」
その言葉に、ミカは何も言わず、ただ彼の手を握った。
「それでも、あなたは、あなた。才能なんてなくてもいい。“自分”を見つける旅に、今から出てもいいの。王族だからって、最初から“答え”を持ってる必要なんて、どこにもないわ」
その夜、アレイドは初めて、自分の存在を“否定されなかった”気がした。
◇
翌朝、アレイドは塔を降りた。図書館の門を出る時、彼は背中で振り返る。
塔の上からは見下ろすばかりだった景色。けれど今は、自分の足で、その中に歩み込もうとしている。
ルシアのようにはなれない。
アリアのようにもなれない。
でも——自分だけの歩幅で、生きていいのだと、母に教えられた。
「……“わからない”を、知る旅をしてみよう。僕自身の答えを探すために」
静かなる少年が、初めて自分の意志で世界に触れようとしていた。
それは、小さな一歩だったが——きっと、彼自身にとっては、世界を変える一歩だった。




