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186話 静かなる少年、すべてを見ていた

魔王城の西側、図書塔の最上階にある一室——そこが、アレイドの居場所だった。日が昇る前に目覚め、朝の帳が消える頃にはもう本を開いている。王子でありながら、護衛すら付けず一人、誰の目にも留まらぬようにその時間を過ごしていた。


書棚に並ぶのは古の戦略書、外交の記録、異種族間の条約集、そして膨大な魔術理論。まだ十歳に満たぬその手は、迷いなくそれらをめくり、時折ペンを走らせては、淡々と知を積み重ねていく。


だが、彼の目は静かだった。まるで心に影を宿したまま、世界を一歩引いた場所から見つめているかのように。


「……ルシア兄様は、今日も朝から民の学校に?」


塔の窓から遠くを眺めながら、アレイドは呟いた。彼の視線の先では、広場で子供たちと話すルシアの姿が小さく見える。


その背中は堂々としていて、誰からも愛されていた。優しさと知性を兼ね備え、民に寄り添い、決して人を見下さない兄——アレイドは、そんな兄を尊敬していた。けれど。


「……僕には、あれは眩しすぎる」


その囁きには、わずかな嫉妬も、諦めも、そして——孤独も滲んでいた。



「アリア姫、また訓練場を脱走されたようです」


「おいおい、今日は七人目だぞ、見失ったの」


「でも魔獣厩で寝てるのを発見しました!……なぜあそこに……」


廊下を歩けば、兵たちの慌ただしい声が耳に入ってくる。末妹のアリアは、誰よりも活発で、誰よりも奔放だった。城中の者を振り回しながらも、どこか憎めない天性の魅力を持っていた。


そんな妹を、父アークは苦笑しつつも抱き上げ、母ミカは根気強く育てていた。家族の笑い声がいつも彼女を中心に響く。


そして兄ルシアは——妹の暴走を止めるのも、またその被害をかばうのも、すべて引き受けてしまう。まるで世界の調停者のように。


「……僕は、どこにも“必要”とされていないのかもしれない」


アレイドの心に、そんな声が生まれたのは、きっともっと前からだった。


全てが分かってしまう。誰が何を考え、何を求めているか。誰が嘘をついていて、誰が本当は傷ついているのか。周囲の気配、仕草、表情、息遣い、魔力のわずかな揺らぎすら、アレイドには“見えてしまう”。


——父は、僕に武の道を継がせたいと思っている。

——母は、僕を外交官のように育てたいと考えている。

——兄は、僕の“冷静さ”にどこか距離を感じている。

——妹は、僕にしか懐いてくれないが……それはどこか「安全地帯」だからだ。


見える。すべてが。


だからこそ、アレイドは疲れていた。生まれつきの才能は、時に彼を誰よりも「遠い場所」に連れて行ってしまう。優しさも、無関心も、怒りも、嫉妬も——誰かの感情が、洪水のように押し寄せてきて、彼はそれを一人、抱え込んでいた。



「アレイド。今日も、一人だったの?」


その声に、アレイドはふと顔を上げた。母——ミカが、図書塔の入口に立っていた。


「……別に。いつも通り、勉強してただけ」


彼は本を閉じ、机の上を整える。無表情にも見えるその顔に、ミカはそっと微笑んだ。


「ねえ、たまには執務室に来ない? お父様と少し話してみたら?」


「……用がないよ。僕は、兄様やアリアみたいに、誰かと積極的に話したいとは思わないし」


アレイドの言葉には刺々しさはない。けれど、どこか寂しげだった。


ミカは静かに部屋に入り、彼の隣に腰を下ろす。


「……アレイド。あなた、全部“見えて”しまうのね」


「……」


「気づいていたわ。あなたは、生まれた時から、“他人の痛み”を背負ってきた子。まだ幼かったのに、あの時……病室で倒れた護衛を、黙って背中で支えてたでしょう?」


ミカの声は、優しくて、けれどどこまでも強かった。


「“できること”が多いとね、人はつい、“やりたいこと”を見失うの。できるから、任される。できるから、期待される。でも、あなたの人生は、“誰かの期待”だけでできているわけじゃない」


「……」


「アレイド、あなたが“やりたい”ことは、何?」


少年の肩が、小さく震えた。


「わかんないよ……母上。僕には、“やりたい”ことがない。全部“できてしまう”だけで……気づいたら、皆が僕に期待するだけで……僕自身が、どこにもいないんだ」


その言葉に、ミカは何も言わず、ただ彼の手を握った。


「それでも、あなたは、あなた。才能なんてなくてもいい。“自分”を見つける旅に、今から出てもいいの。王族だからって、最初から“答え”を持ってる必要なんて、どこにもないわ」


その夜、アレイドは初めて、自分の存在を“否定されなかった”気がした。



翌朝、アレイドは塔を降りた。図書館の門を出る時、彼は背中で振り返る。


塔の上からは見下ろすばかりだった景色。けれど今は、自分の足で、その中に歩み込もうとしている。


ルシアのようにはなれない。

アリアのようにもなれない。


でも——自分だけの歩幅で、生きていいのだと、母に教えられた。


「……“わからない”を、知る旅をしてみよう。僕自身の答えを探すために」


静かなる少年が、初めて自分の意志で世界に触れようとしていた。

それは、小さな一歩だったが——きっと、彼自身にとっては、世界を変える一歩だった。

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