185話 風に立つということ
王都は、夕暮れの光に染まっていた。
長い旅路の終わり、馬車の車輪が石畳に柔らかな音を立てる。西の空に広がる茜の雲が、王城の尖塔の影を引き延ばしていた。
馬車の扉が開き、先に降り立った侍従が手を差し伸べたが、ルシアはそれをやんわりと制し、自らの足で一歩、石畳の地面に降り立った。
「……ただいま、王都」
小さな声に、風が応えたように吹き抜ける。
振り返れば、城門の向こうに見えるのは見慣れた街並み。そして、城の高台からは魔王城の尖塔が、変わらぬ姿で彼を待っていた。
だが、変わらないものは少ない。
この数ヶ月――ルシアにとっては「少年」という枠から一歩、外に出た時間だった。
初めての国際会談。異なる文化、異なる価値観。ある国では「力こそ正義」が語られ、またある国では「言葉こそ最大の武器」と教えられた。ルシアはただそれを「見た」だけでなく、「受け取った」。
だからこそ――。
「お帰りなさいませ、ルシア様!」
その声に、ルシアははっと顔を上げる。駆け寄ってきたのは、母ミカだった。
ふわりと風を受けたドレスが、白銀の光を帯びて舞う。何ひとつ変わらぬようでいて、母の瞳は――深く、澄んでいた。
「……母上」
ルシアは駆け寄る。次の瞬間、抱きしめられたその温もりに、ぐっと喉が詰まった。
「無事で、本当に良かった」
ミカはそう言って、髪を優しく撫でた。
「旅の中で……少しは、大人びた顔になった気がします」
「うん。そう見える。背も伸びたわね」
ミカの声は穏やかだったが、どこか寂しげだった。子が成長する喜びと、手を離れてゆく一抹の切なさ――王妃である以前に、彼女もまた、ひとりの母だった。
「父上は……?」
「執務室。ずっと、あなたの報告を楽しみにしていたわ」
「そう……すぐに行きます」
ミカは微笑んで頷いた。
執務室の扉を開けると、夕陽が差し込む部屋の中央、背を向けて立つひとりの男の姿があった。
アーク。魔王であり、ルシアの父。
その存在感は、いつもと変わらぬ静けさと威厳に満ちていたが、振り返った彼の眼差しは、どこか柔らかく――そして、誇らしげだった。
「……帰ったか、ルシア」
「ただいま戻りました、父上」
ルシアは一歩進み、胸に手を当てて礼を取った。
「報告を。各国の視察、交渉の反応、いくつかの草案の下地は――」
「それは後にしよう。今、私は“魔王”ではなく、“父親”として、お前を迎えたい」
アークの言葉に、ルシアは目を見張った。
しばしの沈黙ののち、アークは歩み寄り、ルシアの肩に手を置いた。
「お前はもう、“誰かの背中”を追う者ではない。君自身が、風に立つ者となった」
静かに告げられたその言葉は、何よりも重く、深かった。
「……そんな器では、まだ」
「そうか? だが、風はいつも“いまここにある者”の袖を揺らすものだ。備えなど、誰も完全にはできん。ただ、“立つ覚悟”があるかどうかだ」
ルシアは黙っていた。だが、その胸には確かに何かが――灯りはじめていた。
「私の背を、追っていたのか?」
「ええ。ずっと……でも、それだけでは、いけないと思いました。父上のようにはなれない。けれど、自分の言葉で、人を導く王子にはなりたいと……ようやく、思えるようになったのです」
「ならば、それが答えだ。――私は、“最強”ではあっても、万能ではない。お前には、お前にしかできぬ道がある」
アークはふっと笑い、窓の外を見やった。
「夕陽が美しいな。かつて、お前を抱いて初めて見せたこの窓からの景色だ。あれから、幾年か……」
「……僕も、あの日の景色を覚えています。母上の腕に抱かれて、父上の背中を見ていた」
「その背を、いまは自分の足で越えて行け」
ルシアは、言葉もなく頷いた。
そして――父子は並んで、沈みゆく陽を見つめた。
その夜。
王族の私邸の一角、小さな庭園にて、ルシアは星を見上げていた。
風が頬を撫でる。もう、それは幼い少年にとって冷たいものではなく、進むべき方向を教えてくれる“導き”のように感じられた。
「……風に立つということは、怖いことでもある。でも――」
彼は胸の中で呟いた。
「僕は、歩く。父のようにではなく、母のようにでもなく、“僕”の足で、僕の風に――」
背後から、そっと声が届く。
「ルシア」
振り向けば、アリアが立っていた。
「まだ起きていたのか、妹よ」
「うん。兄上が帰ったから、星がいつもより明るく見える気がして。ねえ、兄上」
「ん?」
「ずっと、私たちの“前”にいてね。私は……まだ、子どもだから」
アリアの笑顔は、どこか誇らしげで、そして少し寂しそうでもあった。
ルシアは彼女の頭を優しく撫でる。
「必ずだよ。いつか、君もその風に立つ日が来る。だけど、それまで……僕が先に、歩いていく」
アリアは笑った。
ルシアは空を仰ぎ、もう一度、深く息を吸う。
風が、彼の背を押していた。
そしてその風は、彼自身が生み出したものでもあった――。
夜が、未来を迎え入れるように広がっていた。
少年から“王族”へ。
静かなる風が、またひとつ、王都を包み込む。
――彼の歩みは、いま、始まったばかりだった。




